堂々とすることで得られる自由、
隠すことで守ることのできる自由。
そのどちらも素晴らしくて、そして尊いという事実を、
今日の私は知っています。
この本を手に取る人は、著者のことをテレビなどで知っている人も多いだろう。NHKで東京パラリンピックのリポーターをつとめる一方、化粧品会社での勤務経験と専門知識を活かして「スキンケア研究家」としても活動。朝の情報番組の美容コーナーにも出演し、動画配信も積極的に行っている。類い稀な文才も、この本を読めばわかるはずだ。まさに真の意味で「タレント」そのものである。
そんな著者には生まれつき障害がある。左手指が2本、手のひらの両端に弧を描くように曲がってついていて、著者曰く「すごくよく言えば三日月のようなカタチ」。長い間、それはコンプレックスの源であり、同時に著者のパーソナリティを形成するものでもあった。未知の挑戦に立ち向かう勇気や、困難に立ち向かう前向きさを奮起させるスイッチにもなり、人の心の明暗をよく知る人間性を築くきっかけにもなっただろう。本書はそのことを、ユーモラスで愛嬌に富んだ文章で伝えてくれる。
身体的コンプレックスに悩み、性的アイデンティティーにも目覚め、さらにスキンケアの大切さも知った多感な学生時代。化粧品会社に入社し、目まぐるしい忙しさを経験しながら、リポーターの道へと新たに踏み出した人生の転換期。そして、スキンケア研究家という肩書とともに多彩な才能を開花させている現在。その軌跡を著者自ら綴る半生記は非常にドラマチックだが、その筆致はやさしい。時には愉快でさえある。
パラリンピック取材中、スキンケアの知識を通して選手と仲良くなるくだりは、著者の嬉しさや喜びといった華やいだ気持ちが伝わってくるかのようだ。そしておそらく、のちに自ら名乗る「スキンケア研究家」としての天命を悟るきっかけのひとつでもある……そんなドラマ性も感じさせる。
例えば水泳選手はプールの塩素で肌が乾燥しやすい。車いすを漕ぐ時の摩擦で手指がカサカサになっていた選手もいました。私のハンドクリームの出番です。
生まれた時から両腕のない男性選手の顔に、ミストをかけてあげた時の嬉しそうな表情を思い出します。
「おー! これ気持ちよくていいね。どこで買えるの?」
自分が好きな美容をきっかけに、少しずつ選手に心を許してもらえるようになり、取材の時間もどんどん楽しみになっていきました。
ああ、私はこの時もこうやって、幾度となく美容に救われていたんだな。
コロナ禍で東京パラリンピックの開催が危ぶまれ、出場選手だけでなく、リポーターの仕事の予定も続々キャンセルされていった頃の記述は、生々しい不安に満ちている。しかし、著者は奮起して独自に「下準備」をしようと決意する。あらゆる仕事をする人にとって、この前向きな精神力は見習いたいと思うのではないだろうか。
番組に出られなくたっていい。無理だと突き放されたって構わない。たとえその日が、来なかったとしても。
でももしその日が訪れた時には、選手たちが諦めずに挑み続けてきた道のりを、伝えられる準備は私がしておこう。
「私だから果たせる役割」は、テレビに出ることではないということに気がついたのは、その時でした。
手には取材メモと、100円のボールペン。
もう大丈夫。私のこの船は、絶対に沈ませない。
記憶と感情がヴィヴィッドに結びついた文章を読むのは楽しい。パラリンピックのリポーターとして奔走した日々、そして激務に追われていた化粧品会社時代を振り返る文章には、そんな基本的な「読書の魅力」も思い出させてくれる。その豊かな表現力は、多感な幼少期、少年時代の描写にもあらわれる。
幼稚園の頃、自分の左手の障害を初めて意識したときのくだりは、切なく、美しくさえある。「おてて、いつ、はえてくる?」という幼子の無垢な言葉に、思わず慟哭(どうこく)する母親の姿を、こんなにも鮮烈に覚えている著者の記憶力にも驚かされるが、そのときの感情を率直に書き綴る筆致にも胸打たれる。人間の感受性というものがどのように育まれていくか、その道程を見るような思いもするほどだ。
座り込んで、私の両手を握りしめながら、何度も「ごめんね」を繰り返す母。私はただ静かに、その震える声を聞いていました。
子ども心に自分の運命のようなものを悟ったのはこの時です。なぜ自分の手だけがみんなと違うのかはわからないままでしたが、
明確に分かったことが一つだけ。
――もう、このことを母には絶対に聞いてはいけないということ――
その後、思春期を迎えると、さらに忘れがたい痛みや苦しみが記憶のなかに浸み込んでくる。それは障害のあるなしにかかわらず、誰しも同じだろう。下記の一節は、何かしらのコンプレックスを抱えるすべての人の共感をさそうはずだ。
努力してキレイになっていく肌と反比例するように、
どんどんポケットの中に閉じ込めてしまった左手。
窮屈だったね。ごめん。
でも、そこしかなかったんだよね。
9歳のとき、ものを掴めるように手指の位置を入れ替える形成手術をして以来、左手には大きな傷跡が残った。本書のタイトルにもなっている「三日月」の形になった手は、著者にとって長年ひた隠しにしたい存在であり続けた。しかし、そのコンプレックスとようやく向き合い、和解する瞬間も、あるとき訪れる。きっとこんな瞬間を、多くの人が追い求め、待ち続けているのではないだろうか……そう思わせる一場面だ。
もう少しだけ、大事にしてみようと、ふと思った。この傷はこの左手が手術を頑張って乗り越えた証です。これも私の一部だということを、私が否定したら、それこそ可哀想になる。
日々のスキンケアのついでに、見ないフリをしてきた左手のお手入れも始めてみることにしました。
「自分を愛する」「自分を大切にする」という感覚は、いまの日本人が特に抱きづらいものなのではないかと思うことがある。自己肯定感をなくすことは、あらゆるネガティブな感情……無力感や自己嫌悪を招き、他者への無関心の温床にもなりうる。だからこそ、本書はいま多くの日本人に必要な、勇気を授ける一冊といえるのではないか。もういちど、前書きから引用しよう。
白状します。全然完璧じゃないのに、そんな風に自分を肯定できる今の自分のことが、すごく好きです。
こんな風に言い切れるようになりたいと思う人が、いまの世の中には大勢いるのではないだろうか。
また、本書は「障害をバネに頑張る人」といった紋切り型の解釈とも関係がない。自身のセクシャリティを「未定」と言い、立派な社会人経験と多彩な肩書を持ち、マイノリティとしての視点を持ち続けて世間という大海に漕ぎ出した著者に、類型的な「枠」などは当然当てはまらない。そのうえで、もっと普遍的なメッセージを読者に伝えてくれるところに、この本の清々しくもスケール豊かな魅力がある。
でも前述の通り、私自身は、障害のことを個性だと思ったことが一度もありません。
どちらかというと、この障害がいろいろな個性と出会うチャンスを私にくれたという考えのほうが、しっくり来ます。実際に私は、この左手のおかげで、自分の大切な個性に気づくことができました。
ポケットに隠してばかりだった左手。
傷だらけで、ボコボコで、不恰好。見ないフリをして、蓋をして。
紛れもないコンプレックスでした。
そんな自分のことをどうしても諦めたくない。
学ランの私が縋(すが)るように頼った化粧水の一滴から始まった美容という物語が、私の原点です。
皆さんご存知の通り、そのページは、今もこうして続いています。
著者の人生を「一滴」が変えたように、この本が誰かの人生を変える「一冊」になるかもしれない。
レビュアー
ライター、ときどき編集。1980年東京都生まれ。雑誌や書籍のほか、映画のパンフレット、映像ソフトのブックレットなどにも多数参加。電車とバスが好き。