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東日本壊滅はなぜ免れたのか? 取材期間10年! 浮かび上がった衝撃的な事故の真相

福島第一原発事故の「真実」
(著:NHKメルトダウン取材班)
2021.03.29
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入手した瞬間、思わず近くにあったメジャーで厚さを測ってしまった。厚さ約5センチ、734ページの大作である。

本書は『NHKスペシャル「メルトダウンシリーズ」』の取材成果を元に制作された。未曾有の原発事故を「総括」するにはいくらページがあっても足りない、それが制作者側の本音かもしれない。後はわれわれ読者がそこから何を感じ何を学び取るのか。それが厚く重くのしかかる。

時計の針は、間もなく12日午後3時半を回ろうとしていた。全電源喪失という未知の危機からほぼ24時間。経験も想像もしていなかった危機が1日続いたが、なんとか人間の知恵と努力で乗り越え、再び日常へと続く領域に戻ることができるのではないか。長い悪夢から覚めるような、張り詰めた空気がわずかながら緩み始めるような、そんな感覚が免震棟を覆おうとしていた。
しかし、次の瞬間だった。午後3時36分。「どん」という下から突き上げるような短い振動が免震棟を襲った。「また地震か」吉田は身構えた。(中略)
「なんだ? どうした?」「全面マスクをつけろ!」怒号が飛び交う。
「格納容器の圧力を確認しろ!」「圧力、確認できません!」
これまでの地震の揺れとは明らかに異なる揺れ方だった。
運転員の1人は「格納容器が爆発した」と思った。死という文字が頭をよぎった。


多くの人間が「あの瞬間」を覚えている。荒れたテレビ画像に何度も繰り返し映し出される白い煙。慌てふためくアナウンサー。必死に「楽天的な」言葉を探し出そうとする解説者たち。

福島第一原発1号機建屋が、水素爆発した瞬間だった。

当時、福島第一原発には約800人(3月13日)がいた。暗中模索のなかで、任務を放棄することなく、死をも覚悟しながら現場対応に奔走した人間たちである。

主人公はいらないのかもしれない。だが、話を展開する「目印」としての役割は、やはり所長の吉田昌郎が負うことになる。原発に関する深い知識と冷静な判断力の一方で、ときには周囲を感情的に叱り飛ばしたり、やんちゃな言葉遣いで煙に巻く。また、愛読書である道元の『正法眼蔵』(全87巻)を自宅から運び出してくる、そんな人間臭い吉田のことを知れば知るほど、この事故は「物語」としてパッケージングしてしまいたくなる。

本書から窺(うかが)い知る現場の声は、読み手の感情を揺さぶる。

「やばい。逃げたい」30代のA班の運転員はそう思っていた。怖かった。おそらく周りの仲間もそう思っているだろうと感じていた。だが、その思いを口にすると、みんながパニックになるだろうから、決して誰も言わないと思っていた。ひたすら格納容器もってくれと祈っていた。(1号機ベント開閉作業時の運転員)

河合ら日立グループの社員と東京電力の社員が福島第一原発構内近くの日立グループの事務所から、200メートル分のケーブルを車両に載せて、原発構内に入るゲートを通過しようとしたときだった。いつもは通れるゲートが、電源がない状態でまったく開かない。
「どうしますか?」日立グループの社員が言った。
「いいからゲートを壊してください」同行していた東京電力の社員が叫ぶように言った。
河合は、驚いた。普段から東京電力の社員は『ルールは絶対守る』人間たちだった。今は緊急事態だと改めて思った。(電源復旧作業時の関連会社社員)


さっと拾っただけでも、こんな描写が見つかる。

だが、これらは、そして何よりも原子力発電所の大事故は、おとぎ話や壮大なSFではない 。実際に起きたことなのである。事故の詳細、原因、対応の検証、今後に活かすべきデータ。物語として感傷に浸る前に、われわれが片付けておかなければならないことはいくらでもあるのだ。

事実を事実としてあぶり出す。しかしそこには、決定的な障害があった。

事故が起きた3月11日の午後6時半前。このときも、福島第二原発の社員がテレビ会議の録画スイッチを押して記録が始まった。
録画には、映像と音声の両方が記録されているはずだった。ところが後に調べてみると、録画開始から翌12日の午後11時前まで、映像は記録されていたものの、音声は記録されていなかったことがわかった。東京電力は、福島第二原発の社員が映像の録画スイッチとは別にある録音スイッチを押し忘れたのが原因だと説明している。事故の検証で、最も重要とされる初動の会話の記録がない、というのが東京電力の公式見解だ。
このため、この時間帯に何が行われていたかを知る資料としては、政府や東京電力などの事故調査で、事後に関係者から聞き取った証言や断片的に残されていた原子炉や格納容器のデータなどをもとにした報告書に限られている。
つまり、東日本大震災が起きた3月11日午後2時46分から翌12日午後10時59分までは、現場でどのような事故対応が行われたのかを検証するための客観的な資料が残されていない、いわば「空白の32時間」となっているのだ。

第一部は原発事故のドキュメント、第二部は「事故はなぜ起きたのか? 本当に防ぐことはできなかったのか?」と題された検証である。

◯全電源喪失
◯イソコン(非常用冷却装置)
◯菅直人総理大臣の来訪
◯ベント作業
◯電源復旧作業
◯消防車による注水
◯自動車バッテリー作戦
◯ヘリコプターによる注水

次々と襲い来る想定外の出来事に必死に対処する彼ら。丁寧に描き出された「事実」(あるいは事実と思われているもの)に対して、

◯なぜイソコン停止は見過ごされたのか?
◯ベントは本当に成功したのか?
◯海水は1号機に届いたのか?
◯巨大津波への備えはじゅうぶんだったのか?
◯SR弁(減圧装置)はなぜ開かなかったのか?
◯メルトダウンの真相は?

など、その後の証言や調査でわかった検証結果に、多くのページが割かれている。

吉田が、本当に成功したのかどうか、最後まで疑っていたというベント。その謎を追っていくと、確かにベントは行われていた。しかし、事前の予測をはるかに超えた大量の放射性物質が放出されていた現実が明らかになった。そして、なぜ大量放出が起きたのか、そのメカニズムの詳細については、いまも研究が続けられている。

この引用からもわかるように、現場の人間の認識とその後の判明した事実にはいくつものズレがある。 突然復活したイソコン用電源、ベントの効果、現場・免震棟・東京本社・官邸、それぞれの間に生じる溝。すべてがあぶり出されていく。

この稿で触れていない重要箇所は、まだまだたくさんある。ぜひ、この分厚い本を手に取り、個人個人の「真実」に迫ってほしい。

  • 電子あり
『福島第一原発事故の「真実」』書影
著:NHKメルトダウン取材班

東日本壊滅はなぜ免れたのか? 取材期間10年、1500人以上の関係者取材で浮かび上がった衝撃的な事故の真相。
他の追随を許さない圧倒的な情報量と貴重な写真資料を収録した、第一級のノンフィクションがついに刊行。736ページの完全保存版

思いも寄らない真相が次々明らかに
真相1 吉田所長の英断「海水注入」はほとんど原子炉に届かなかった
真相2 1号機で唯一残された冷却装置は40年間にわたり「封印」されてきた
真相3 原子炉を救う減圧装置には、高温高圧になると動作しにくくなる弱点があった
真相4 2号機の消防注水の失敗が皮肉にもメルトダウンの進行を遅らさせて「最悪の事態」を防いだ
真相5 巨大な津波に備えて、津波対策に着手していた原発があった

東日本壊滅が避けられたのは偶然の産物だった!?
極限の危機。核の暴走を食い止めようと、吉田所長らは、爆発や被ばくの恐怖と闘いながら決死の覚悟で現場にとどまり、知恵を絞り出して、原子炉に水を入れ続けた。幸いにして、格納容器の爆発は免れた。当時の政府のシミュレーションでは、最悪の場合、福島第一原発の半径170キロ圏内がチェルノブイリ事故の強制移住基準に達し、半径250キロ圏内が、住民が移住を希望した場合には認めるべき汚染地域になるとされた。半径250キロとは、北は岩手県盛岡市、南は横浜市に至る。東京を含む東日本3000万人が退避を強いられ、これらの地域が自然放射線レベルに戻るには、数十年かかると予測されていた。
10年にわたる取材で、この最悪シナリオが回避されたのは、消防注水の失敗や格納容器のつなぎ目の隙間から圧が抜けたりといった幾つかの偶然が重なった公算が強い。この事故では、当初考えられていた事故像が新たに発見された事実や知見によって、どんでん返しのように変わった例は枚挙に暇がない。この極限の危機において、人間は核を制御できていなかった。それが「真実」である。

既刊・関連作品

レビュアー

中丸謙一朗

コラムニスト。1963年生。横浜市出身。『POPEYE』『BRUTUS』誌でエディターを務めた後、独立。フリー編集者として、雑誌の創刊や書籍の編集に関わる。現在は、新聞、雑誌等に、昭和の風俗や観光に関するコラムを寄稿している。主な著書に『ロックンロール・ダイエット』(中央公論新社、扶桑社文庫)、『車輪の上』(枻出版)、『大物講座』(講談社)など。座右の銘は「諸行無常」。筋トレとホッピーと瞑想ヨガの日々。全国スナック名称研究会主宰。日本民俗学会会員。

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