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熊川哲也、21年ぶりの自伝『完璧という領域』。次世代へのわざの伝承【第3回】

完璧という領域
(著:熊川 哲也)
2019.12.25
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■「先人との交感」という「わざ」の伝承

知りたいことの三つ目は、「先人との交感」がバレエダンサーとして、あるいは演出家として必要な能力=「わざ」であるならば、その「わざ」はどうやって次世代に伝えるのか、ということです。

いま、Kバレエカンパニーのメンバーたちにどのようなことをしているのか。気をつけていることは何か。どんな伝えるための工夫をしているのか。これは教育学者の端くれとしてとても気になるところです。

ふたたび本書から自力で答えを探してみるなら、偉大な芸術家たちの楽譜や古書のコレクションを子どもたちに見せて触らせているという話はすごく重要だと思って読みました。「感じるか感じないか、わかるかわからないかは別として、先人の魂が宿った存在とそれをいつくしむ感性があることを胸にとどめていれば、いつかは感じる時が来るかもしれない。ここではただ、触れるという経験が大事なのだ。」(138頁)

これにはすごく共感で、子ども達は恵まれているなぁと思います。文化財の役割を新たに強調できる重要な認識であるとも思いますし、さらにいえば、「わざの世界」でたびたび語られる「小さいころから本物に触れておくということの重要性」にもつながるところだと感じています。

いろんな方が同じようなことを言っていますが、たとえば古美術鑑定家の中島誠之助さんは「まずは体当たりで、欲張らずに一点でいいから、いいモノを見ることが大事。一点わかれば後は次々と見えてくるものです。…真贋判定のカチマケは、身体で覚えた、感性で覚えた人が勝利します。だから最初にホンモノを見るという勉強をする。本や説明書で見て覚えるのではなく、まずはよいモノを一生懸命見ることが勉強で、若いうちにそういう勉強をしなければ一人前にならないとよくいわれたものです。」(『ニセモノ師たち』講談社文庫 292-293頁)と語られています。

中島さんが面白いのは、モノの見方を身につけるためには順序があるということまで語っておられる点で、「知識すなわち学問が土台になって、その上に美が成り立っているというのはアンバランスです。美しいな、いいなという感動が土台になり、その上に知識や学問が成り立っているのでなければ、美の探求によって得られる美意識の完成というバランスは崩れてしまうと私は思います。…若いとき感動した品物が、後年になって、あれは国宝だったのかと驚き、その次の段階でなぜその品物が国宝になったかを勉強するわけです。これがモノの見方の本質ではないかと思います。」(同上 292頁)と述べられています。

この「学びの順序」と同じような話は、法隆寺大工西岡常一さんの唯一の内弟子小川三夫さんも語っておられて、『わざ言語-感覚の共有を通しての「学び」へ』(慶應義塾大学出版会)に収録されている論文のなかで、「経験を阻害する確認作業」の問題として僕なりに整理しました。熊川さんもまずは感覚的な理解があって、その後、身体の状態や動きを理詰めで分析したり解読したりすることができるようになったわけで、そういう意味では「学びの順序」から外れていません。

子どもの頃から本物に触れていることの重要性は極めて大切であるとして、さらにそのうえで問うとすれば、熊川さんはいま、子どもではなく大人たちには「先人との交感」についてどのように伝えているのかどうか、そこが知りたいところです。

「今から思えば、多感な時期に西洋の文化と伝統を知り、歴史的な遺産や一級の芸術に触れ、古典と会話できるような感性を養っておけば、もっと早くにダンサーとして成熟することができていたように思う。若いころ、伝統や先達への敬意と感謝をないがしろにしていたことは、今も後悔している。その苦い経験は後に続く世代にしっかりと伝えておきたい。」(188頁)そう述べたあと、Kバレエユースの公演など、子どもや若手ダンサーの成長の場を設けるための試みについて語られています。でも、より具体的にはどうなのか。

例えば、Kバレエのティーチャーズ・トレーニング・コースのなかで「古典と会話できるような感性」を養うような講座はあるのか、それを養うために若手は何をするべきか、など、熊川さん演出の舞台で踊るダンサーたちが、「チャイコフスキーに選ばれる」(58頁)ための、「過去の生きた音楽家の実在を肌で感じる」(138頁)ための、その工夫や試みについて聞いてみたいです。

■バレエダンサーとしての身体感覚を語る言葉-言葉を手がかりに考えてみる

そして四つ目は、身体感覚を語る言葉についてです。僕はスポーツやバレエを「人間のもっている可能性に出会えるもの・新たなイメージを持たせてくれるもの」と理解しているところがあります。速く走る、深く潜る、高く飛ぶ、早く回転する……厳しいトレーニングを経た才能のある人たちが、その身体を使って人間の可能性をいろいろとみせてくれる。それを見ることは、単に「すごい! 綺麗! 楽しかった!」で終わるようなことではなく、見ることによって人間として進化・成長するという価値があるのではないか。「見ることは追体験である」という理解の延長で、そのようなことを考えています。

たとえば、本書に掲載されている熊川さんの一枚の写真(99頁)があります。空中で静止しているような、思わず見入ってしまう素晴らしい写真ですが、これを追体験する意識で、「熊川さんに成ったような気持ち」でじっと見ていると、なにか自分の身体の内側に感覚が生じてくるような気がしてきます。

撮影: 木本忍

熊川さんの呼吸はどうなっているのか、視野はどうか、なにが見えているのか、身体の力感はどうか、肌に触れている空気感、指先や足先まで意識が通っている感じ、昂揚感と静さ……ただの想像かもしれませんが、これもまた「先人との交感(の入り口)」であると思います。そして、これまでの「私の枠組み」にいるなら感じることはなかった世界や景色や感覚に触れたことで、僕は人間の可能性として、すこし前進した、すくなくとも今までは持っていなかったイメージに触れることができた……そんなことを考えたり感じたりします。

そういう意味で、動きを見るということだけでもバレエ鑑賞に価値があると考えていて、観に行くことはもちろん、写真や映像を残すこともすごく重要だと思っています。そのうえで、僕が望むのは「感覚の言語化」です。写真や映像だけでなく、卓越した人の感覚を語る言葉を残してほしい。言語化には危険性が伴いますが、それでも、言葉だからこそ見えてくることもあるからです。

たとえば、先ほども引用した武道家光岡英稔さんの『身体の聲』には、日本人が失いつつある「足腰感覚」の話があり、その感覚の基礎を「自分の肩を楽に胸は抜き、腹を通り肚まで下り、その肚を足元までゆらりとし、腰を入れて二足で立ったり座ったりする。」(52頁)と言語化してくれています。

腹と肚の違いなど、考えなければならないことはいろいろですが、この言葉を手がかりに試行錯誤をするのは、いまの僕にとってはなかなか面白い経験でした。この言葉でいままでは考えたこともなかった一つのイメージを持つことになり、合気道の道場での立ち方がすこし良くなったような気もしています。

間違った言語化が、伝えたいことから遠ざけてしまったり混乱を招いたりする危険性があることもわかったうえで、でももし、適確な言葉遣いによって一流の身体感覚を言語化してくれる人がいたら、それは大変貴重な「文化財=先人の痕跡」となると思うのです。古武術研究家の甲野善紀さんが武術の身体操作を介護の世界で活用してみせたように、洗練された身体の使い方には普遍性があると思います。

そして、熊川さんは、言語化能力も一流のダンサーだという感じがします。『完璧という領域』を読んでいて、バレエを踊るにおいて、指導するにおいて、演出するにおいて、そのときに必要な「言葉の問題」について、熊川さんはいろんな試行錯誤の経験があり、それによって編み出した自分なりの方法をもっておられるはずだ。そう確信しています。

例えば、次のような認識、「優れた指導者のレッスンは「足を二センチ高く上げて」といった技術論と「空気と戯れるように」といった感覚論が、半分ずつうまく配分されているものだ。」(186頁)と語られているところ。これはとても面白い指摘です。ここでいう「感覚論を支える言葉」についてあれこれ考えたのがまさに『わざ言語』の本でしたが、こういうことが言えるのは熊川さんが伝える言葉の問題に敏感であるからでしょうか。きっと、もっといろんな工夫をしておられるはずで、それを支えている言語観、身体観、教育観について掘り下げて語ってもらいたいなぁと思わされました。

撮影: 瀬戸秀美

そしてもちろん、熊川さんが語られるダンサーとしての動きの言語化もとても刺激的です。印象的だったのは、まず一つ目、「低重心と左右均等がもたらす身体の安定感は、たとえばピルエットの回転の速さにかかわってくる。僕の場合、重心が腰に安定的に乗り、腰からねじって回ると下半身がそれに付いてくる。中心軸がぶれずにスピンしていると軸のほうに力が集まり、速度を落とさずに十回、十五回と回転を持続させることができる。」(89頁)

これは、バレエダンサーの身体感覚に関わる言葉ですが、合気道を探求していて身体のことに関心がある僕にとっても示唆的な言葉でした。この記述のなかの「腰をねじると下半身がついてくる」という感じ、この感じはすごくよくわかります。足は「動かす」のではなくて「ついてくる」。腰をねじると足はついていきたくなる。武道でも腰を切って足を出す動きがあるのですが、「そうする」のではなくて「そうなる」という感じにしたいのです。その、能動ではなくて受動のような感じ。DoではなくてBeの感じ。難しいのですが、でもうまくいくとすごく自然で安定したいい感じになります。

これはすごく重要なところで、多田先生の合気道の稽古では、「相手の手首をつかまずに手刀で切っていくと勝手に手のなかに入ってくる」、「引っ張り落とすのではない。畳に手を付けるだけだ」、「相手を倒そうというような念を自分のなかに生じさせない場所に立つ」、そんな説明の仕方が頻繁に登場します。ぼくはこれを「作為的にならないための言葉の工夫」だと受け取っています。

「結果的にそうなる」というかたちでいかに動くか、そういった身体運動を促すための言葉かけをどうするか……これは「流れに乗る」ということと関わってくる重要な技術論だと思っています。作為的に動くのではなく、身体が自然に動く流れをいかに生み出すか。どうやってその邪魔をしないでおくか。音楽に乗る。身体に任せる。その先にZONEや「フロー体験」があるのだろう……そんなことを考えさせられる箇所でした。

そしてもうひとつ、「バレエのステップ、動きのラインに手が果たす役割は意外に大きい。ジャンプは通常、脚でするものと思われているが、跳ぶ方向にまず手が先行し、引っ張り上げるような形で動かなければ、正確かつ敏速に跳ぶことはできない。手を追う形で身体が動くのであって、手と体が同時に動くわけではない。」(90-91頁)

ここにも「受動のような動き」「結果的にそうなるような動き方」があります。先行する手によって「身体は引っ張りあげられるような形」で動く。熊川さんは場面を変えても同じような動きの本質に触れておられてとても面白いです。剣においても、「手で押し上げる」のではなく、剣先が天井から紐で引っ張り上げられるような感覚をベースにして、手は剣を支えながらその動きについていくような感じで振りかぶれと言われたりするので、同じだなと思いながらこの一文を読みました。和太鼓の師匠もバチを振り上げるとき、やはり「上から吊り上げられている感じで」という指導をされており、こういう在り方、感覚は、いろんな世界に共通するようで、大変興味深いところです。

しかしそれでも「先行する手は能動的意識的に動かしているじゃないか」と思ってしまいますが、熊川さんは次のように書いておられます。「手が動くためには、その前に意識がそこに向いていなければならない。こう動きたいという意識があるから実際に動くのであり、動きに先行して意識がある。」(91頁)

ここでは明確には書かれていませんが、意識と動きの間にも、意識についていくように手が動く、意識に導かれて手が動くというような関係性があるのではないかと想像しています。ではこの「意識」とは何なのか。たぶんおそらく、どうやらそれは「動きのイメージ」であるようです。

この引用のすこし前に、野球を例にした動きの説明がありました。外野手が落ちてくるボールをキャッチするとき「まずボールの落ちていく場所に手を伸ばし、その軌跡を追う形で身体が動いて、時にジャンプして捕球する。」(91頁)と書かれています。少し噛み砕いてみると、ここでは、手を伸ばすことで今から体が動くことになる「軌跡」が描かれると述べられて、そして、体はその軌跡を追うと言っています。それはつまり、「身体を(能動的に)動かす」のではなくて、やはり、すでにある「流れ」に体を乗せていく、軌跡に導かれるように受動的に動く、そのような在り方を語っているように感じられます。

この話が僕に刺さってきたのは、合気道の稽古で多田師範が技を行うとき、「すでに動きの線が見えている。その線に身体を放り込むんだ」と繰り返しおっしゃるからです。動きのイメージが事前にあって、動くべき線が、動きの流れがすでにあって、そこに自分を乗せていく。そうすると「技が生まれてくる。だから技をかけようとするな」。熊川さんがここで語っていること=語りながら見ている景色は、多田先生が技を行ううえで見ている景色と同じであるような気がして、ああ、やっぱりそうなのか、そういう景色があるのかと、ゾクゾクして、すごく興奮しながら読みました。

しかし、こういう動きの話は映像で見るとなかなか分からないのです。手を上に押し上げたのか、手が吊り上げられたのか、その外見的な違いはそう簡単には見てもわかりません。でも、身体内部の感覚はまったく別で、動きの質もまったく違うことになります。つまり、手を上に押し上げた場合は、肩や肘から動き始めて最後に指先が動くことになり、手が吊りあげられた場合は、まず指先から動き始めて肘、肩という順に動いていく。

このような、「目に見えない・目に見えにくい違い」を知るためには、感覚の言語化が重要であると僕は思っています。モーションキャプチュアのようなもので微細な動きの順序などは可視化することが出来るでしょうが、もう一つ重要なのは、学び手が「考えること」なので、モーションキャプチュアで答えを見せるのではなく、適確な言葉によって思考に誘うことが重要、などと考えていたりもします。

そういう意味で、熊川さんには、バレエダンサーとしての感覚をもっといろいろと言葉にしてほしい。そして、その感覚を伝えるための工夫についても書いてくれないかなぁと思っています。技術論、教育論をテーマにした続編があれば、それはものすごくマニアックな本だと思いますけれど、「バレエという共同体の伝承者」という役割を担っておられる熊川さんにとっても意味のある重要な役割の本になるような気がします。

長くなってしまいましたが、感想はここまでにします。一冊の本を巡ってこんなに長く書いたのは初めてでした。そう狙っていたわけではありませんが、書き終えてみれば、『完璧という領域』という「先人の痕跡」を前にして、「熊川さんとの交感」をやろうとしていたような気もしています。

  • 電子あり
『完璧という領域』書影
著:熊川 哲也

熊川哲也、21年ぶりの自伝。Kバレエカンパニー旗揚げ、古典全幕作品上演、バレエスクール主宰、日本発オリジナル作品創造、オーチャードホール芸術監督、そしてさらなる新たな創造。前人未踏の軌跡が今、本人の手で明かされる――。

「完璧など存在しない」と人は言う。だがそれは失敗から目をそらしたり夢をあきらめたりするための言い訳にすぎない。たしかに作品を「完璧という領域」にまで到達させるには、ダンサーの心技体だけではなく、オーケストラやスタッフ、観客、劇場を含むすべてが最高の次元で調和しなければならない。それは奇跡のようなことかもしれない。しかし「完璧という領域」はたしかに存在する。偉大な芸術はすべてそこで脈打っている。僕はつねにその領域を志向してバレエに関わってきた。――「はじめに」より抜粋

レビュアー

川口陽徳

1979 年奈良県生まれ。東京大学大学院教育学研究科博士課程満期退学。千葉経済大学非常勤講師などを経て現在在野で研究活動を行っている。修士(教育学)。専門は、教育哲学、教育人間学。主要業績に(共著)『わざ言語――感覚の共有を通しての「学び」へ』(慶應義塾大学出版会、2011年)、(共著)『日本の「わざ」をデジタルで伝える』(大修館書店、2007年)、「漢方医道の継承――浅田宗伯の知識観と師弟関係」(『東京大学大学院教育学研究科紀要』第45巻、2006年)、「『言葉にできない知』を伝えること――『わざ』の世界から学ぶ」(『幼児の教育』第108巻、日本幼稚園協会、2009年)、「『文字知』の陥穽――宮大工の継承における書物」(「人間形成における『超越性』の問題」、京都大学GCOE <心が活きる教育のための国際的拠点> 研究開発コロキアム論文集、2010年)などがある。

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