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第64回乱歩賞受賞作スピンオフ短編を特別公開!『間氷期』(1)

2018.11.05
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緑色に輝く山が、闇の彼方で揺れている。

だがそれは、生命の緑ではない。夜空を背に雪を抱く峰々が、電子的に光量を増幅され、緑色の輪郭を浮かび上がらせているのだ。

暗視装置の視界の中、世界は緑と白と黒のグラデーションだけで構成されていた。 細かな砂礫に覆われた緩斜面を、小石を蹴り飛ばさぬよう登っていく。目の前で揺れる、大きなバックパック。後ろを振り返れば、同じようにバックパックを背負った男たちが列をなしているだろう。

誰も、ひと言も口にしない。聞こえるのは、吹きつけてくる風の音と、スノーブーツが踏みしめる砂利の音、そして自らの息づかいだけだ。空気は明らかに薄く、呼吸は荒い。

自分たちを除き、周囲に動く者の気配はない。それでも、すぐ前を行く男は声を潜めて言った。

「50メートル先の大岩で小休止」

ありがたい。同じ台詞を、後ろに続く男へ伝える。小声が、さざ波のように縦隊を伝わっていくのが聞こえた。

数分後、闇の中に一際黒くそびえる岩の下で、ジョン・デフォー二等兵曹は白いカバーを被せたバックパックを降ろして座り込んだ。

周りで座り込む7人の人影の全員が、冬季作戦用の白い防寒パーカーとオーバーパンツを着用し、ウールニットのフェイスマスクで顔を覆っている。さらに暗視ゴーグルつきの白いヘルメットを被ったその姿は、さながら雪山の怪物のようだ。

ゴーグルを外す。不思議なことに、暗視装置を通して見るよりも世界は明るく感じられた。見上げると、先ほどまで空を覆っていた厚い雲は強風に吹き流され、澄み切った漆黒の空に無数の星屑がちりばめられている。

冷たい星明かりが、6,000から7,000メートル級の山々──中央アジア、カラコルム山脈の稜線を、ほの白く照らしている。視線を周囲へ向ければ、積雪は意外と少なく、所々に万年雪が残っている程度だ。植物の姿はほとんどない。森林限界をとうに超えた標高なのだ。

右手に見える山塊の向こうには、南極を除けば世界二位の長さをもつシアチェン氷河が流れているはずだ。ここは、インド・パキスタン国境の紛争地帯──『世界最高地点の戦場』とも呼ばれる土地である。

そんな天国とも地獄ともつかぬ場所へ、つい数十分前、デフォーたちアメリカ海軍特殊部隊『SEALs』は上空10,000メートルを行く輸送機からパラシュート降下してきたのだった。

「高度障害にかかっている者はいないな。各自、早めに食事をとっておけ」

陸海空のすべてを活躍の場とすべく、シー・エア・ランドの頭文字からなる名を与えられた『SEALs』。部隊を構成する10のチームのうち、“チーム9”から今回の任務のため選抜された隊員8名を指揮する、ランディ・ベイカー大尉が言った。

夜明けは、まだ遠い。夏季であるにもかかわらず、気温はマイナス30度を下回っている。

その中で、通常より味の濃い、高地用の戦闘糧食を袋から直接食べた。正直、旨いものではない。

デフォーは思った。この程度の餌──とまでは言い過ぎか──を与えておけば、特殊部隊は疲れもせず延々と戦い続けられるとでも、上の連中は思っているのだろうか。所詮、兵隊など駒ということか。

「まったく、ろくでもない寒さの上、空気も薄いときた。泣けてくるね」

フロリダ生まれのティム・ロバーツ上等兵曹が小声で文句を言うのが聞こえたが、それを無視するように、ベイカーは皆に告げた。

「そろそろ出発だ。調査隊のベースキャンプまで、北へ10キロほど。この先で、いくつか尾根と氷河を越えることになるが、見た通り積雪は少ない。ピクニックみたいなもんだ」

「最初から目的地に降りられれば楽なのにな。詳しい地形図がないなんて、今どき本当かよ」

隊員の1人のぼやきに、ベイカーは律儀に答えた。

「衛星から写真が撮れる時代でも、よほどの僻地になると、完全なデータは揃っていない。そしてここはその、よほどの僻地というわけだ。……各自、装備をチェックしろ。ウェスト、先行してくれ」

ベイカーに声を掛けられた隊員は、構えていた双眼鏡から目を離すと、バックパックを背負った。偵察を担当するアンドレア・ウェスト上等兵曹はバードウォッチングが趣味で、暇さえあれば鳥を探している。SEALsを志願したのも、世界中の鳥を見るためだというのがもっぱらの噂だ。

「鳥ばかり見てるんじゃねえぞ」

そう言ってからかうロバーツは、目つきが鋭く犯罪者じみた凶相をしているので、悪気はないのだろうが聞いているほうは少々ひやりとしてしまう。もっとも、当のウェストはデフォーよりもずっと長く付き合っているからか、さらりと言い返した。

「偵察のついでに見てるだけだ。それより、お前のそれは今回役に立たないだろうな」

ロバーツの前を開けた防寒パーカーから覗く、戦闘服の記章を指さす。それは電子情報処理の特殊技能資格を表すものだった。たしかに、こんな雪山での任務でサイバー戦など起こりようもないだろう。

──シアチェン氷河奥地に入ったアメリカ・日本合同の学術調査隊が、イスラム過激派勢力の脅威にさらされている。SEALチーム9派遣部隊は調査隊を守り、過激派を殲滅せよ。

2日前の、カリフォルニア州コロナド基地。デフォーたちに、国防総省から来たという担当官は命じた。

通常であれば、命令は部隊の指揮系統を通じて伝達される。国防総省の担当官が直接、彼らに命令を伝えるのは異例といってよい。それだけで、この作戦がかなり上の直轄であること、つまり面倒な仕事であることは想像できた。さらに不可思議なのは、その場にもう1人いた担当官の所属だった。その男は、NNSA──国家核安全保障局から来たとだけ自己紹介し、その後はずっと黙っていた。いったい、この件と核に、何の関係があるというのか? 今回のミッションは、妙なことが多い──。

だが、深い思考を巡らせる贅沢は、行動中の特殊部隊員には許されない。まもなく全員が重さ20キロ近い装備を再び背負い、緩斜面を登った先の尾根を目指して行軍を始めた。高度障害対策のため、ペースが遅めなのはありがたかった。

ほとんどの者が、いつでも撃てるように、銃身の短いM4カービンを軽く構えている。M16に代わりアメリカ軍の制式自動小銃となったものだが、特殊任務用にスコープやレーザーサイト、サプレッサーなどをごてごてと装着したモデルだ。デフォーは、自分の銃に白いテープを巻いてカモフラージュを施していた。同様にしている者も多い。

「学術調査隊って、いったい何を調査してるんですか」

歩きながら、デフォーは前を行くベイカーに小声で話しかけた。白い息を吐き出さぬよう、なるべく口を開けずに声を出す。

ベイカーはお喋りを注意するでもなく、投げやりに答えた。

「ブリーフィングで聞いた以上のことは、俺だって知らんよ」

国境紛争を続けていたパキスタン軍とインド軍が停戦協定を結んだため、パキスタン側へ学術調査に入ったという説明は聞かされていた。

──しかし、イスラム過激派がいるのに調査に入るなんて、助けに来るほうの身にもなってほしいもんだ。

デフォーは足元の砂礫を踏みしめつつ思った。所々、雪の積もった部分が増えてきている。尾根を越えた反対側、北向きの斜面を下りる時には、もっと歩きづらくなるかもしれない。

すぐ後ろを歩くロバーツが、話に入ってきた。

「そんな連中を守りながら仕事するのは、ちょっと面倒だな。今回は新人もいることだし」

最後尾を黙々とついてくる男、最近チーム9に加わった、カトリと名乗る日系人のことだ。陸軍特殊部隊からの出向だと聞いている。

カトリは寡黙な男で、話しかけてもただ曖昧な、東洋的な笑みを浮かべるだけのことが多い。狙撃手であるため、皆と同じM4カービンの他、アンチ・マテリアル(対物)ライフル、バレットM95SPを持っている。全長1メートルを超える大型の銃を分解収納したケースは、彼のバックパックにくくりつけられていた。

長い時間をかけ、チームはようやく尾根に到達した。そのあたりまで来ると積雪量は増え、ブーツの足元から迫り上がる冷気は一段と激しい。空を覆っていた星々はいつしかその数を減らし、藍色の空は夜明けの予感をはらんでいた。

稜線から上に出ぬよう、姿勢を低く保って休息を取る。何人かは酸素を吸っていたが、デフォーは今のところ大丈夫だった。隣では、学者肌なのに体力は人一倍あるウェストが、嬉々として双眼鏡を構えている。

「本当に鳥が好きなんですね」

「鳥だけじゃなく、自然科学全般に興味があるんだ。この部隊で金を貯めて、除隊したら大学に入りなおすつもりさ」

ロバーツが口を挟んでくる。「あのな、作戦前にそういうこと言う奴は、たいてい戦死しちまうんだよ。やめとけ」

ウェストは笑って双眼鏡を覗き続けていたが、ベイカーに偵察を命じられると、もう一人の隊員とともに尾根の北側斜面を下りて行った。

その北側斜面を覗くと、登ってきた南側より傾斜がきついガレ場が広がっていた。起伏も激しく、いたる所に雪渓がある。そこを下り切った先、向かいの山との間の谷底には、道とも呼べぬ道があった。

視線を上げれば、夜空とは違う黒さの、それぞれ微妙に色合いの異なる影が幾重にも連なっている。何列も続く山並みがあるのだ。所々の頂が明るく見えるのは、もう陽の光が届いているのだろうか。

この地域のどこにも、人工のものは見当たらない。ここは、文明から隔絶された土地だった。そういえばと、デフォーはベイカーに尋ねた。

「大尉は、以前に南極の観測基地へ行かれたことがあるとか」

「ああ。このチーム9を、雪中戦担当にする計画があったんだが、その訓練で行かされた。正直、俺は寒いのは苦手なんだ。なんでその俺のチームを、雪中戦部隊にしようなんて思うんだか」

「こう言ってはなんですが、チーム9はいいように使われてばかりですよね」

デフォーは、最近参加した作戦を思い出しながら言った。どうも、自分たちは雑に扱われているような気がしてならない。チーム9は、他のチームで持て余し気味だったり、問題を起こしたりした隊員の寄せ集めだという噂が、SEALsの中では囁かれている。実際、デフォー自身にも心当たりはあった。

「まあいいさ。来年には俺も異動だ。そうしたら、雪山にも南極にも縁はなくなるだろう」

ベイカーが期待する口調で言った時、ウェストたちが戻ってきた。鳥を探していた時とは別人のような顔をしている。デフォーは、その表情が何を意味するか、知っていた。戦場にいる兵士のそれだ。

ウェストは、ベイカーに開口一番、言った。

「あまり楽しくないものを見つけました」

それは、この地に来て初めて見る人工物だった。

尾根から雪渓のあるガレ場を100メートルほど下り、突き出した大岩を迂回していった先に、狭い岩棚が見える。尾根から見下ろした際には死角になっていた場所だ。そこに身を寄せ合うように設置された、カーキと白の迷彩が施された数張のテントは、小規模な部隊のキャンプ地であることを示していた。

岩陰から状況を確認する。少し観察しただけで、誰もいないであろうことは、双眼鏡を使わずともわかった。少なくとも、生きている人間は。

テントの周囲に、軍用としては違和感のある色──赤いものが飛び散っているのが見えたからだ。

姿勢を低くし、M4カービンを腰だめに構えながら、警戒隊形でテント群の中に分け入る。すぐにデフォーたちは、テントの周囲で白く凍てついた、7つの死体を発見した。

凍りつき、雪に覆われてもなお、いくつもの血だまりは鮮やかな赤色を残していた。テント群の中心、かまどの跡の周囲には食料や装備が散乱し、何らかの惨劇がこのキャンプ地を襲ったことを想像させた。

うつ伏せになった死体を、ロバーツが仰向けに転がした。

「こんな所で寝てると、風邪ひくぞ」

その冗談には隊員たちの誰も反応しなかったが、死体が着ている戦闘服と、背負ったままのドイツ製G3自動小銃を見たベイカーは冷静に言った。「パキスタン軍だな」

「インドとの停戦協定で、この地域にいてはいけないはずですよね」

デフォーが疑問を口にすると、ベイカーが推測を述べた。

「この連中も、イスラム過激派を追っていたのかもしれん。パキスタン政府は、過激派に悩まされているからな。それが、返り討ちにされたということだろうか」

その時、別の死体を確認していた隊員が言った。「銃撃の跡がないな。皆、刃物で殺られている」

また別の隊員が、1つのテントの裏で声を上げた。

「なんだ、これ」

近づくと、そこには岩肌に打ち込まれたアンカーから、鉄の鎖が垂れ下がっていた。アンカーに繫がれていないほうの端には手錠らしきものがついていたが、それは外れた状態だ。鍵で開けたのではなく、破壊されている。不揃いな鋸状の断面は、何か固いものを何度も打ちつけたようでもあった。

「捕虜をつないでいたんだろうか。それを奪回に来たのかもしれない」

「ずいぶんひどい扱いをしていたみたいだな」

デフォーの頭に、捕虜虐待の4文字が浮かんだ。

捕虜虐待は、人類史上いくつもの悲劇を経た末、ジュネーヴ条約で禁止された。しかし戦場においては遵守されないことも多く、そもそも正規軍ではないゲリラに対しては適用されない。アメリカ自身、捕えたイスラム過激派の戦闘員を拷問しているという。デフォーも、グアンタナモ基地で行われているらしいその措置についての話を聞いたことがあった。

よく見れば、手錠には血のこびりついた、毛皮の切れ端のようなものが挟まっていた。

デフォーの隣から、ロバーツがそれを覗き込んできた。

「こりゃあ、過激派じゃないぞ。雪山に住むっていうイエティだな。この連中、イエティを捕まえてたんだ。それで、取り返しに来た仲間に殺された」

冗談めかして伝説の雪男の名を口にしたロバーツを、ウェストが即座に否定した。「それはないだろう。イエティは、ヒグマの見間違いという説が有力だ」

「びびってるのか?」ロバーツが冷やかす。

「無駄口を叩くな」ベイカーが遮った。「そんなもの、存在するはずがない」

「大尉殿は夢がないですなぁ」くっくっく、とロバーツが不気味な笑い声を上げる。「ま、夢なんて俺たちの仕事にゃあ一番要らないものですがね」

ロバーツはそれから、テントの1つに入っていき、中を物色し始めた。

ふと見ると、カトリが死体の前で自分の手のひらを合わせ、目を瞑っていた。デフォーは尋ねた。「何やってるんだ」

「死者が安らかに眠れるよう、祈っていた」

「日本……日系人というのは皆そうするのか」

「人によるよ」

カトリは、その死体を確認するためにそっと仰向けにした。すぐにあることに気づき、デフォーとカトリは顔を見合わせた。

「これは……」

2人の声を聞いたベイカーが近づいてくる。「どうした」

「見てください。刃物だけじゃないようです」

カトリの指し示した死体の胸、バジュワ中佐と読める名札をつけた部分に、細い木の棒のようなものが刺さっている。倒れ込んだ時に折れたのだろう、くの字になった部分には、3枚の羽がついていた。それぞれに、筆でさっと刷いたような赤い線が入っている。矢羽だった。

発見した死体を再度確かめると、3体に矢で射抜かれた跡があった。

「他の2人については、矢を回収したんだな。これだけは、死体の下側にあったから忘れていったのかもしれない」ウェストはそう言いながら、凍った死体から抜き取った矢を観察して言った。「鏃の工作精度は悪くないが……。イスラム過激派が、今どき矢で戦うかな?」

「やっぱりイエティだ。矢を使うイエティ」と、テントから出てきたロバーツがふざけて言った。

「しつこいぞ」と叱ってから、ベイカーは言った。「学術調査隊が心配だ。急ごう」

デフォーはバックパックを背負いなおしたが、頭の片隅には引っかかるものがあった。彼らパキスタン兵が追っていた相手、そして彼らを殺した相手は、本当に過激派だろうか──。

  • 電子あり
『到達不能極』書影
著:斉藤 詠一

衝撃の受賞作なしから1年。

こんな熱量を、興奮を待っていた!
賞始まって以来、最大スケールの冒険ロマン、ここに爆誕!!
第64回江戸川乱歩賞受賞作。

1945年、ペナン島の日本海軍基地。訓練生の星野信之は、ドイツから来た博士とその 娘・ロッテを、南極にあるナチスの秘密基地へと送り届ける任務を言い渡される。

現在と過去、2つの物語が交錯するとき、極寒の地に隠された“災厄”と“秘密”が目を覚ます!

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