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「現実は甘くない」を盾に逃げているあなたの思考、変わります

現実脱出論
(著:坂口 恭平)
2016.09.09
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坂口さんの闘争宣言・マニフェストといえる本です。坂口さんはなにと戦おうとしているのか……。もちろん“現実”というものであり、またことあるごとに“現実”云々を口の端にのせて不思議に思わない人たちとです。

書名に「脱出」とあるので、戦闘を回避しているように思われるかもしれませんがそうではありません。30年前に『逃走論』などというものがありましたが、それは「スキゾ」「パラノ」といった流行語を生んだだけでした。「逃げるってカッコイイ」などというような言辞だけが残っています。

坂口さんのこの本はそのようなものではありません。さまざまなシーンで使われる“現実”という言葉、さらにそれが指し示しているものの根拠を坂口さんが問うという格闘をリアルタイムで綴ったものです。ですからこの本を読むときに必要なのは坂口さんの思考の流れに沿ってまずは身を委ねてみるということです。身を委ね読み進めるにつれて次第に自分の周りの風景が変わっていくのが感じられると思います。

ところでおよそ“現実”という言葉ほど使う者にとって都合のいい言葉はありません。「現実は甘くない」「もっと現実的に」……等々の言葉はいたるところで聞かれます。でもこの言葉は、実は極めて“暴力的”なものなのです。

「現実はね」というような言葉で論議を一方的に打ち切られた経験を持つ人は多いと思います。発せられた言葉で話がシャットダウンされ、場が凍りつくようなことに出会った人は多いでしょう。それまでの談論風発(?)をまったく無にするような使われ方をする“現実”という言葉。それを発した人が極めて“上から目線”になっていることに気づかない。それどころか、相手のいたらなさを気づかっているとでもいわんばかりな振る舞いまでをさせてしまう“現実”という言葉。その使い方、間違っています。

坂口さんも「あなたは夢想家なのよ」と失笑しながら両親から言われたことを記しています。この時、「夢想」(理想でも希望でもいいかもしれませんが)に対置するものとして“現実”というものが持ち出されています。あたかも“現実”だけが揺るぎないものであるかのように。またあるときにはあたかも“真実なるもの”に導くものようにすら語られています。

注意しなければならないのは“現実”を語る人が陥っているワナです。彼らが示しているものは少しも事実(ファクト)としての“現実”ではなく、自らの論を補強するために事実のある要素を切り取っているだけのことが多いのです。“現実”という名目で自分の観念を示していることが多いのです。「現実的に」云々という人ほど“現実”をとらえかえしていないことがあります。ここに潜んでいるのは怠惰さでもあります。

坂口さんが脱出しようとしているのは、“可能性”を奪い、人間の思考や行動をせばめているこの“現実”という観念であり、それを疑おうともしない人たちがつくり出している世界です。

なにより“現実”は硬直したものではありません。坂口さんは、私たちが陥りがちな“硬直した現実論=現実感”へ疑問を向けます。

たとえば、こんなことを感じた人は多いでしょう。「どうして、朝と夜の時間の流れ方が違うのだろうか」と感じたり、ゆったりと時が流れるように感じていることがあるのはなぜなのだろうかと思った人が。

──「時間」も、既知のもの、当たり前のことと判断するのでなく、新しく思考することで、伸縮が可能になるのである。──

さらにいえば時間が伸び縮みできるのなら、空間もできるはずです(相対性理論!)。同じ空間(店内)にいてもより「広く感じたり」した坂口さんの実体験とそれがもたらしたものが語られています。
──空間が膨張したり時間が停滞したりする瞬間のほうが、正確に測った体積や、均等に流れているはずの時間よりも真実味を感じてしまう。──

『生きられる時間』(ミンコフスキー)という著書がありますが、坂口さんもまた“生きた時間”の必要性とそれが秘めている可能性を提唱しているのでしょう。この感覚を主観的なもの、観念的なものと一蹴してならないと思います。この坂口さんが体験した“生きた時間”を観念的というのなら、同じように“現実的”というものも観念的なものに過ぎないというべきでしょう。かつて24時という時間のすべてを奪われることがあっても、思考するための“25時”という場を作り上げようと言った人がいました。坂口さんの提言はそれに通じるものがあるように思います。

本当は“現実”は、それを口にしている人よりはるかに大きく包容力もあり、可能性の塊でもあります。「現実はさ」などとしたり顔(?)風な人には、“現実”は姿をあらわさないと考えるべきです。

脱出すべき“現実”とは、怠惰で、冒険も夢も、さらには可能性を自ら閉ざして顧みない人たちの住んでいる場所です。そこに止まってしまうと、誰もが知らずのうちになにかにからみとられ、自らを閉ざしてしまうことになりかねません。

「それぞれの人が持っているそれぞれに固有の空間認識、知覚の在り方」を信じることがすべての始まりです。“現実”はそれと正面から取り組むものにこそ、その豊かさをあらわしてくるのだと思います。自分の可能性を手放さず、そして夢や理想を持って歩くものには、“現実”は糧を与えてくれるのではないでしょうか。生きるとは、所与の“現実”から遠ざかりながら、新たな“現実”に出会うことではないか、そんなことを思わせる、素晴らしい思索エッセイです。

レビュアー

野中幸宏

編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。政治経済・社会科学から芸能・サブカルチャー、そして勿論小説・マンガまで『何でも見てやろう』(小田実)ならぬ「何でも読んでやろう」の二人です。

note
https://note.mu/nonakayukihiro

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