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【戦国軍事マニア必読】陣形は動く城である。最強は何か?

「歴史が好き」と自称する人はずいぶん多いだろう。中でも戦国時代は、小説でもドラマでも映画でもゲームでも日本人の大好物である。映画館の大スクリーンで見る合戦のシーンは本当に血がたぎるものだし、戦国シミュレーションゲームにおける自陣の強化や合戦、武将たちとの駆け引きなどは時間を忘れてしまいそうになるほどだ。最近では日本刀を擬人化したゲームなどが人気で、刀剣や戦そのものに興味を惹かれる若い女性の姿も散見されるようになった。さまざまな入り口から歴史に興味を持つ人が増えていくのは、よき文化が醸成されるわけで、ファンにとっては喜ばしいことである。
今回は戦にまつわる重要なふたつの要件、陣形と城の知識を得るのにきわめて有用な2冊をご紹介しよう。

2016.02.09
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陣形は動く城であった──不明瞭な陣形の歴史を紐解く中世軍事考察本

  • 電子あり
『戦国の陣形』書影
著:乃至政彦

歴史小説作家の伊東潤氏も大絶賛した、中世軍事史に一席を投じる快作、ついに登場!
歴史に名高い川中島、三方ヶ原、関ヶ原の合戦における実相や、甲斐武田氏と越後上杉氏が取り組んだ軍制改革の真相など、徹底的に歴史の「真実」を掘り起こした渾身の一冊。

会戦と陣形

野戦の陣形同士がぶつかる会戦は戦国時代の花形だった。

陣形は戦争以外でも多用されている。たとえばラグビーやサッカーなどのスポーツに使われるフォーメーション(「配置隊形」と訳されることが多い)である。これらでは人やチームの特性を考慮し、それをどう活用するかで配置が定められる。計画的な隊列を組ませることで、集団に規律と秩序と指針をもたらすのである。

では戦国大名の軍隊はどのような陣形をいかなる思惑で運用したのだろうか。

陣形は動く城であった──と考えるとわかりやすい。

本丸としての本陣があり、二の丸、三の丸などに相当するだろう複数の部隊(備《そなえ》)が周囲を固め、城壁や城門の役割までも果たした。これらは本丸を守るばかりでなく、敵の脅威を消し去るため、戦闘状況に即して機動する。本物の城は動けないが、動く城であるところの陣形は移動できる。敵の三の丸(三の備)が味方の城門(一の備)と戦っている間に、味方の二の丸(二の備)が側面から攻めかかる戦術も可能だ。

陣形も城と同じくそれぞれに独特の形状と運用があったと考えるのが自然だろう。

律令制の開始とともにはじまった陣形の歴史

陣形とは、布陣の形状である。陣とは陳の俗字であり「連ねる」に因むという(同字を使った「商品の『陳列』」などはそういう意味である)。

戦国時代にあったとされる陣形だが、いつどのようにして生みだされ、実用にいたったのかは明らかにされていない。

一般にいわれるのは次の説である。

醍醐天皇の時代(897~930)、大江維時《これとき 》(888~963)が唐に渡り、龍首将軍から三つの兵法書『六韜《りくとう》』『三略』『軍勝図四十二条』(諸葛亮の八陣)などを授けられ、朱雀天皇の時代に帰国した。だが維時はこれらの兵書を秘匿して伝えず、その代わり『訓閲集《きんえつしゅう》』120巻をなし、世に残したとされている(『武芸小伝』『貞丈《ていじょう》雑記』など)。

そして後三年の役(1083~1087)で奥州鎮圧の任にあたった源義家が、維時の子孫である匡房《まさふさ》からその『訓閲集』を介して秘伝を学んだと伝承され、その後『訓閲集』は小笠原氏に相伝されたという(赤羽根2008)。

ただ、維時が記した『訓閲集』の原書は失われたと伝わっており、本当に同題の原書があったかどうかはわからない。しかも後の世に継承者を自称する人々が後付けの新解釈を施し、同題を標榜する兵書を多数増産してしまったので、ますます実態が不明になってしまった。それぞれもっともらしい証言を添えている割には、相互に整合性がとれないからである。

手堅い史料だけを虚心坦懐に見ていくと、日本で陣形の導入を認められるのは、意外にも維時のころから150年余りさかのぼり、律令制時代からになる。

壬申《じんしん》の乱の勝利により即位した天武天皇は、それまでにない専制政治を志向した。そして天武10年(681)、律令を定めると国家体制の構造改革を開始した。その所産のひとつが「陣法」の整備であった。

このとき日本は初めて上意下達、トップダウン式の軍団制を構築しようとした。「陣法」とは兵を連ねて配置する「布陣」のことで、「陣形」の事始めだと言っていい。日本が初めて陣形の実用を試みたのは、7世紀後半からなのである。

史料そのままではない陣形と戦況の図

陣形──まずはわれわれがよく想起するその通念を一から見直してみよう。

近年、歴史物の著作物でよく見られるような、陣形の図説や軍勢の配置図というものは、実はすべて後世の想像図であり、中世当時の史料に存在しない。

われわれが古戦場や概説書で目にする合戦の図説は、いずれも文字史料に書かれる「□□□(兵数)を率いる△△△(人名)が○○○(地名)に布陣した」などの文章、および合戦図屛風や配陣図などの絵画史料を基に再現されたものである。

情報源とされる軍記史料や絵画史料は、いつも型どおりに兵数・人名・地名を明記しているわけではない。しかもこれらは後の時代になって、曖昧な伝承や推測に基づいて書かれたもので、信頼度は決して高くない。同時代の史料であっても、公的な記録として後世に伝え残すつもりで書かれていないので、合戦の実像を探ることは難しい。

通説とされる「陣立の図」への疑問

陣形といえばまず次の軍勢配置のイメージが想起されるだろう。まずは深く考えずに「陣立《じんだて》の図」(図1)を見てもらいたい。

図1 陣立の図
図1 陣立の図 小和田哲男「陣立」(『国史大辞典七』吉川弘文館・1986)より

上は小和田哲男《おわだてつお》氏が『国史大辞典七』(吉川弘文館・1986)の「陣立」の項に記した「陣立の図」で、ドラマやゲームでもおなじみの陣形となっている。

現状これらの陣形が通説と化している。なかでも「車懸《くるまがかり》」と「鳥雲《ちょううん》」を除く8種類は、『甲陽軍鑑《こうようぐんかん》』において同名の陣形が紹介され、武田信玄が工夫したとされる八陣(魚鱗《ぎょりん》・鶴翼《かくよく》・長蛇《ちょうだ》・偃月《えんげつ》〈彎月《わんげつ》〉・鋒矢《ほうし》・方よう《ほうよう》〈方円〉・衡軛《こうやく》・井雁行《せいがんこう》〈雁行〉)は戦国時代によく使われていたものとしてイメージされている。

よく知られる「鶴翼の陣」のイメージ

戦国関連の書籍やサイトのほとんどが、「鶴翼の陣」とは、大軍でもって鶴が翼を広げるようにして、包囲した敵を討ち取る陣形であると紹介している。

有名な実例としては、永禄《えいろく》4年(1561)の川中島合戦における武田信玄(1521~1573)、元亀《げんき》3年(1572)の三方ヶ原《みかたがはら》合戦における徳川家康(1542~1616)、慶長《けいちょう》5年(1600)の関ヶ原合戦における西軍が、鶴翼の陣で備えたと伝えられている。

それぞれ「三方ヶ原合戦で、徳川家康は鶴翼の陣を使った。包囲陣であるから、相手より兵が多くなくては有効ではない。だが家康は相手より兵が少なかった。劣勢を知りながら虚勢を張ったのだ……」、「関ヶ原の西軍は兵数優勢で、鶴翼の陣により勝利はほぼ間違いのないところであった。ところが想定外の裏切りが陣形の優位を覆した……」などの説明で印象されているだろう。

だが、どうだろうか。中世から近世までの軍事史料を見てみると、意外な事実にぶつかってしまう。具体的な形状を示す同時代史料(いわゆる一次史料)に、こうした陣形の存在を裏付ける証跡がないのである。

あらゆる文献を博捜したとされる『古事類苑《こじるいえん》』(兵事部《へいじぶ》)を見ても、『戦国遺文《せんごくいぶん》』に掲載される古文書をあたっても、鶴翼や魚鱗といった陣形のたしかな内容は探しだせない。それらしいものが登場するのは、戦国が終焉して何十年も経過した徳川時代になってからで、しかも軍学者たちは流派によってまったく異なる説明をしている。たとえば「八陣」を八種類の陣形として理解する流派もあれば、本陣周囲に八つの部隊を備える正方形の配置と考える流派もある。

試しに承応《しょうおう》2年(1653)版で確認される小笠原昨雲《おがさわらさくうん》(生没年未詳)『侍用集《じようしゅう》』巻二に書かれた「鶴翼の備そなえ(陣)」(図2)を見てもらおう。

図2
図2 鶴翼の備(陣)

図の補足文には「これは、敵より兵数が多いとき、包囲して討ち取る陣形として有効である」という意味のことが書かれており、現在の通説とほぼ変わりないものに読める。

だが、図そのものはどう見てもV字型の形状からかけ離れている。無理にいえば、前衛の「鉄炮《てっぽう》」「弓《ゆみ》」「鑓《やり》」の配置を微妙ながらもV字型と強弁《きょうべん》できなくもない。ところが二陣以後の配列は明らかに逆の形である。全体に縦長であり『日本戦史』がいう「鶴翼」=「横隊」の等式とも一致しない。

次に山鹿素行《やまがそこう》(1622~1685)の『武教全書《ぶきょうぜんしょ》』「八陣応変《はちじんおうへん》の事」(『山鹿素行兵学全集《やまがそこうへいがくぜんしゅう》』第4・611頁)による「鶴翼の備」(図3)の図を見てもらおう。

図3
図3 鶴翼の備 山鹿素行『武教全書』「八陣応変の事」より

素行は、鶴翼の備を「裏を討つ」陣形とし、「前後相《あい》そなへ左右能《よ》く守りて鶴翼のごとくなり」と説明している。形状にいたっては、通常よく知られるV字型と真逆の形状になっている。

よく考えてみるべきだろう。鶴が翼を大きく広げるとどうなるだろうか? その動きは「V」だけでなく、「W」字型になることもある。飛翔するときはこの通り「八」字型にもなるはずだ。「鶴翼」とひと言でいっても、鶴の翼自体が動的で一定に収まらない。

素行の説明によると、鶴翼の陣は敵よりも大軍であることが前提となっていて、広地で野戦をするとき、左右の脇備えを鶴が翼を開くように動かしてこの構えになるという。そして実戦では、まず前方の4部隊(「陰《いん》」「陽《よう》」部分)だけで戦闘を開始し、次に隙を見て左右の六部隊が敵勢を包み込むべく展開する。

このとき現在でいう翼包囲《よくほうい》(envelopment)の陣形になり、一時的にV字型の形状を経過することになるが、はじめ八字型の構えを定型としているのは、左右を守る守備型として動くと同時に、初期段階で敵に真意を悟らせないためであるようだ。根底にあるのは、剣道の「脇構え」(刀身の長短を測られないよう剣先をそらす構え)と同じ思想だろう。

信玄が現役だった戦国時代に「鶴翼」と呼ばれる陣形があったとすれば、V字型ではなく八字型に近い形状で、戦闘によって包囲を展開する陣形だったと考えられる。

本書『戦国の陣形』では、中世の史料から軍勢の配置を見つめ直し、その流動的な変遷を具体的にたしかめる。そうすることで戦国時代を起点とする陣形の成立史を浮き彫りにする。この試みが合戦のイメージをよりリアルに再構築する一助となれば幸いである。

» 『戦国の陣形』について詳しく見る

実戦あってこそ、城には魅力がある──城の攻防戦に注力した「戦う城」本

  • 電子あり
『城を攻める 城を守る』書影
著:伊東潤

老若男女問わず、日本の名城を巡る旅がブームになったのはみなさんの記憶にも新しいところだろう。そうした中で、ぜひ手にとっていただきたいのがこの本である。
本書は、徹底した時代考証とリアリティに満ちた作風で定評ある歴史小説家・伊東潤氏が、実際に攻防戦を経験した「戦う城」を集め、その歴史的背景を解説している。実戦あってこそ、城の魅力は高まるのだと氏が主張しているとおりの意欲的な一冊である。
本書では、攻防戦の「激しさ」「面白さ」「歴史的意義」の三点を重視し、全国26の城郭攻防戦についてそれぞれ、会戦の背景や推移を深く分析している。単なるガイド本ではなく、戦う城の魅力が満載の歴史考察本といえるだろう。城が持つ歴史的背景を存分に堪能できる、歴史好きにはたまらない内容だ。

» 『城を攻める 城を守る』について詳しく見る

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