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【芥川賞候補作】芸術家への夢。変わらぬ故郷で、自分を変える物語
彫刻家を目指す美大大学院生シン。師事している岸川先生がこんな話をする場面があります。「学生の人生にとって、彫刻がどうして必要なのかっていうことは、教師にも教えられない。本人だけが知っている、生来必要としていたことっていうのかな、ずっと作品を作っていると、この木には、もともと作品が埋まっていて、自分はそれを掘り起こしているような感覚になるときがあるの」と。
この岸川さんの話には夏目漱石の『夢十夜』の一節が重なって見えてきます。第六夜の仁王を彫っている運慶の話です。「なに、あれは眉(まみえ)や鼻を鑿でつくるんぢやない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋まつてゐるのを、鑿と槌の力で掘り出す迄だ。丸で土の中から石を掘り出す様なものだから決して間違ふ筈はない」という。そしてこれは「自分は此の時始めて彫刻とはそんなものかと思い出した。果たしてさうなら誰にでも出来る事だと思ひ出した」のですが、仁王を「掘り當てる事が出来なかった」。「遂に明治の木には仁王が埋まつてゐないものだと悟つた」と続きます。
漱石は明治日本の理念の空虚さをいっているように思うのですが、岸川さんには掘り出すべき美の形とでもいったものが見えているのかも知れません。それをあらわしているかのように、シンには「岸川先生の作品には、心身と仕事とのずれが見えない。人でも木でも、こう思ったからこう動いてこう仕上がったと、すっきり立っている」ように思えてならないのです。シンはそのような作品を作り上げることの難しさを知りながらも、彫刻家への道をあきらめることはできません。
不安を抱えながらも帰郷するシン。故郷はいつものようにシンを迎え入れてくれました。シンの実家は少し複雑で、母とじいさんと呼ばれる内縁の夫の3人で暮らしています。さらには、シンの実父、倫さんとも行き来をしているという家庭なのです。幼なじみに「お前の家は、自由すぎる。とくにかーちゃん、まったくわかんねなあ」といわれるような家でした。
そこにはいさかいというものはありません。けれどシンにとっては「……ぜんっっぶ、きゅうくつだっ」「ここに帰れば、もうここにいたくないということだけわかる」のが故郷でもありました。どのように自分は進めばいいのか、彫刻家として生きていけるのか……。そんななかでドイツ留学を心に決めたシンですが、将来への不安は消えることはありません。
再び帰省して留学のことをどのように家族に告げようかと迷うするシン。そのシンを見て倫さんはこう話します。ボブ・ディランに傾倒している倫さんはディランになぞらえて「ディランがすごいって思うのはな、どんどん変わっていくんだ」「変われねなら、芸術家じゃねんじゃねえか」と。
倫さんの声に押されるように留学のことを家族に告げるシン。穏やかそうに見えていた家族の間にさざ波が起きてくる。そして追い打ちをかけるように起きた事故。それがシンの一家をバラバラにすることになってしまいます。そして事故後にシンが見つけた1本の松。そこには「新の木、切るな!」と貼り紙がありました。その木をじっと見つめたシンの心が動く。その木に埋まっているものがシンには見えたのでしょうか……。
細やかな人間描写で描きだされた故郷のそして東京の心優しい人々の姿、けれどその優しさに一方では息苦しさも感じてしまうシン。夢へ向けて歩み出すことへのためらいと決意の間に揺れるシンの心を描いたこの長編には、家族というものの中にある不思議な磁力や、故郷が持つ時間を超えた人間のつながりというものを考えさせるものでもありました。ただ、倫さんが聞かせているボブ・ディランの『ライク・ア・ローリング・ストーン』を口笛で吹くのはとても難しいような気がするのですが。
レビュアー
編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。
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