「キャラクターもの」というと、真っ先に漫画が思い浮かぶのではないでしょうか。手塚治虫氏の『鉄腕アトム』『ブラックジャック』、石ノ森章太郎氏『サイボーグ009』の島村ジョー、永井豪氏『デビルマン』の不動明、「矢吹丈」「ドラえもん」「キン肉マン」「ケンシロウ」など、数多の名キャラクターがこの分野には登場し、人気を博してきました。
しかし「キャラクター」は、なにも漫画だけで取り扱われるものではありません。私たちはリアルでも「あの人はキャラが立っている」「自分はこういうキャラだから」などと言いますが、そもそもキャラクターとは、物語の歴史とともにあったもの。文字の世界でも「キャラクター」は人気を博してきました。たとえば「シャーロック・ホームズ」は、文字で描かれたもっとも著名なキャラクターのひとりではないでしょうか。
日本でも、あたかも現代のライトノベルのように「文字におけるキャラクター表現」が大人気を博したことがあります。たとえば日本の伝統と文化が生み出した「キャラクターたち」。塚原卜伝、宮本武蔵、佐々木小次郎、柳生十兵衛といった剣士の活躍を描く、いわゆる「剣豪小説」が戦後、昭和30年代当時、大ブームになっていました。
この藤沢周平氏の『決闘の辻』もそうした剣豪小説。二天一流の宮本武蔵や、柳生流の柳生宗矩、一刀流の小野忠明といった剣豪たちを取り上げた小説集です。刊行は、先の剣豪小説ブームよりも大きく時代をくだって1985年。刊行は昭和でいうと60年です。かつてのブームが、戦後の混乱をようやくに脱し、やがてくる高度成長の時代が見えてきた時代のものなら、『決闘の辻』はバブル時代の作品。伝統的なキャラクターを、現代的な解釈で再評価し構築した物語でした。それゆえの「“新”剣客伝」というサブタイルがつけられているのでしょう。
'80年代というと、みんなしてアホになってバブルに踊っていた時代というイメージがありますが、必ずしもそれだけではありません。
欧米に追いつけ。そうした目標のもとがんばってきた戦後社会ですが、ふと気がつけば、達成していた。少なくとも戦後間もない時代とくらべて、いつの間にか物質的には満たされるようになっていた。今までは無我夢中でやってきたが、これからはなにを目標して生きればいいのだろうか。そうした模索が、娯楽作品の中でも扱われるようになった時代でもありました。要するにもっと世の中は複雑になってきた。
たとえばかつての「ヒーローもの」では世界が単純に善と悪に分類され、主人公が戦うことに、明確な理由があった。しかし1979年の『機動戦士ガンダム』になると、世界はもはや単純ではなく、主人公も自分が戦うことについていろいろと悩みます。そして1987年の続編『機動戦士Zガンダム』になると、この傾向はさらに強くなります(余談ですが1995年の『新世紀エヴァンゲリオン』に至ると、もはやアイデンティティの模索そのものが作品の主題であるかのようになります)。
藤沢氏が『決闘の辻』で描いた「新剣客伝」も、そうした時代の状況を反映したのかどうか。伝統的なキャラクターも、ただ強いだけの男たちではない。ただ、道徳的にも優れ人格者とかでもない。老境。政治権力。嫉妬、羨望、栄達心。非日常的なヒーローを、ごく平凡な人間の欲望で解釈するだけともまた違う。
ヒーローであるがゆえの苦悩に踏み込み、現代の読者をしてなお憧れをかきたてるキャラクターへと再構築するという営為。考えてみれば、21世紀においてアメリカの映画監督、クリストファー・ノーランが、『バットマン』シリースで挑戦したのと似た試みですね。
藤沢版の剣豪小説に登場するキャラクターたちは、人間的な欲望を露呈することもありますが、しかしやはりヒーロー。異常な能力を有する戦闘者でもあり、ひとつのキャラクターの中でいろんな要素が複雑に融合している。その配分がとてもかっこよく、色気があります。現代においてますます意味を増す、藤沢氏の作品集。オススメです。
レビュアー
作家。1969年、大阪府生まれ。主な著書に〝中年の青春小説〟『オッサンフォー』、現代と対峙するクリエーターに取材した『「メジャー」を生み出す マーケティングを超えるクリエーター』などがある。また『ガンダムUC(ユニコーン)証言集』では編著も手がける。「作家が自分たちで作る電子書籍」『AiR』の編集人。近刊は前ヴァージョンから大幅に改訂した『僕とツンデレとハイデガー ヴェルシオン・アドレサンス』。ただ今、講談社文庫より絶賛発売中。
近況:この原稿を書いていた間に、歯医者の予約時間をぶっちしてしまった……。慌てて電話したが受付のお姉さんはものすごく冷たかった。当たり前だ。