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企業が変われば社会が変わる。新たな時代の要求にマッチした「いつ倒産してもいい経営」

2024.08.06
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バブル経済の崩壊で、社会に害を与えても営利活動に走り、
経営が苦しくなると、不正を働いてまで生き残ろうとする企業が多発した。
私は企業が倒産するのは経営者に能力がないか、
その企業は社会からの引退を要求されているのだと考える。
そうした企業が悪事を働いてまで生き残るのは間違いであり、
そのような企業は倒産するのが社会貢献であるとさえ考えている。

すべての企業は「社会の公器」、企業市民としての役割・意識を持つべき

著者の高瀬拓士氏が、創業間もない日立製作所の孫会社である株式会社日本コンピュータ開発の経営立て直しのため、古巣である日立製作所からの要請に応じて米国から帰国したのは1987年。当時の日本はまさにバブル経済の真っただ中。誰もが浮足立ち、我が世の春を謳歌していたこの時代、高瀬氏は日本社会の異様な盛り上がりに危機感を覚えたという。

バブル経済の崩壊後、長期にわたる経済的低迷、地方社会の衰退、危機的なエネルギーや食糧の海外依存、圧倒的な少子高齢化など、多種多様な社会問題に襲われている日本。
高瀬氏はそれらの問題の根幹は「教育の問題」、家庭教育や学校教育、中でも最高学府である大学の乱立、ビジネス化、就職予備校化などの問題以上に、「社会の公器であり、最強の社会人教育機関」としての企業の在り方にある、と説いている。この本は、企業および企業経営者に「社会の公器」としての意識の変革を求めている一冊といえる。

企業は社会の一員であり、公器である。
社会と企業はGive & Takeの関係である以上、
一方的に社会を利用して、自己利益を図るというのは間違いであり、
何らかの活動で社会に貢献すべきであろう。
それができない企業は、
潔く倒産して社会から消えていくことこそが社会貢献である。

本書の中で一貫して高瀬氏が説いているのは「資本主義のための人間」ではなく「人間のための資本主義」であるべきだということ。経世済民の言葉通り、人は決して「経済の奴隷」ではなく、経済は人が幸せを得るための一つのツールに過ぎない。日本は欧米とは歴史も文化も価値観も異なる。その正確な理解と認識、誇りを失って、欧米的価値観をベースにした資本主義一辺倒では国家の発展も国民の幸せもない。グローバリゼーションとは、大いなるローカルゼーション。何でも欧米の真似をすることではなく、独自の価値ある特徴を生かした個性化を図る、ということだ。

正反対にも見える二つの主張に見られる共通点

最初に本書のタイトル『「生き残る経営」よりも「いつ倒産してもいい経営」』を見たときには、てっきり「中小企業淘汰論者」として知られるデービット・アトキンソン氏の主張に近い内容だと想像していた。
つまり「賃上げができない(生産性が低い)企業の経営者は退任するべき。真っ当な経営が立ち行かない企業は社会においてその役割を果たせていないので、さっさと退場すべき」という自由主義経済ど真ん中のロジックが展開されると思っていたので、欧米的資本主義から脱却して「日本的経営」への回帰を求める、むしろ正反対ともいえる主張に少し驚いた。

しかし、この二人の主張には、じつは一つ、大きな共通点がある。
平成の30余年をかけて少しずつ「時代遅れ」とされてきた日本的経営への回帰を主張する高瀬氏と、「最低賃金を引き上げて、経営力と競争力がない中小企業を淘汰・統合するなどの政策を行うべき」と主張するアトキンソン氏の共通点。
それは、中小企業を含めたすべての企業に「公器」として、「社会的存在」としての働き、意識を求めているという点だ。たしかに企業は利潤を追い求めるべき存在であり、両氏ともそこはまったく否定していない。ただ、同時に「社会的存在としての企業」という視点が失われかけているのでは、と説いているのだ。

たしかに、今年に入って大問題になった自動車メーカー各社の根深い不正の問題や、昨年大騒ぎになったビッグモーター、およびそれに協力した損害保険会社の不正問題ほか、特にこの10年近く、名の知れた一流企業でも不正や品質問題が常態化している現状を見るに、とても「公器としての企業」の意識が高かったとは思えない。

現状に対する問題意識は共通だが、その原因への考察や解決へのアプローチが異なる二つの主張がある。こういうときは結論を急がず、さまざまな意見に触れるべきだと思うので、この手のテーマを扱う書籍は、これからも読み続けて行きたいと思う。

『「生き残る経営」よりも「いつ倒産してもいい経営」』書影
著:高瀬 拓士

日本経済が長期低迷し、「失われた30年」といわれていた2024年3月、それまで徐々に上昇していた株価が急上昇し、日経平均株価が一気に4万円を超えるという歴史的株高を記録した。自信をなくし長期低迷していた日本経済が再び息を吹き返しそうに思えるが、しかしながら、あのバブル経済がもたらした社会の実態を振り返ることなく、再びあのバブル経済のような経済発展を始めようというのだろうか? ――ひたすら「経済的な豊かさ」を追求してきた日本の社会は、人間関係は希薄で無縁社会と評され、子供たちのはしゃぐ声は大人社会に迷惑がられ、幼稚園建設は近隣住民の反対運動を受ける。少子化の中で貴重な若者たちが生きる意欲を失って自殺するだけでなく、生きていても経済競争社会のストレスに耐え切れず、自宅にこもるニートといわれる者がいる一方で、精神障害で凶悪事件を引き起こす者も多い。かつては「和魂漢才」「和魂洋才」といわれた日本近代化の歴史があるが、戦後の貧しさからの脱出を達成して以降も、ただひたすら経済発展という物質文明を追及する日本社会は、「無魂米才」ともいえるありさまである。
日本人として自立の意思も志もなく、世界に誇れる伝統的な日本文化を失い、日本人の日本知らず。日本社会は今、教育現場も政治の世界も、欧米型人権主義、金銭最優先の物質文明など、欧米の価値観に毒されてしまっている。これは明らかに日本人の民度の低下であり、教育も政治も民度以上にはよくならないのではないだろうか?

本書では、そのような日本社会の行く末を憂い、日本社会と経済を真に回復させるために日本人の民度を向上させるカギとして、「企業=最強の社会人教育機関」の意義について述べる。もし民度を向上させる方法があるとしたら、それは教育であるが、その教育を左右するのは政治であり、その政治を支えるのは国民、つまり社会人である。その社会人の質を左右するのは、企業ではないだろうか? 企業はその組織活動を通じて社員、つまり国民に絶大な影響を与えている。日本社会、そして日本人が日本の伝統文化に無関心になり、ひたすら金銭を追い求めるようになったのも、日本的経営を放棄してただひたすら経済的成果を追求するアメリカ型経営、無魂米才の典型である企業の責任ではないだろうか?

「無魂米才」「無魂洋才」ではない、伝統的な日本の文化を背景にした新たな日本的企業経営の創造に取り組むための、中小企業経営者必読の経営論。

レビュアー

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奥津圭介

編集者/ライター。1975年生まれ。一橋大学法学部卒。某損害保険会社勤務を経て、フリーランス・ライターとして独立。ビジネス書、実用書から野球関連の単行本、マンガ・映画の公式ガイドなどを中心に編集・執筆。著書に『中間管理録トネガワの悪魔的人生相談』、『マンガでわかるビジネス統計超入門』(講談社刊)。

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