暴走したAI(人工知能)が人類に叛逆するというストーリーは、SFとしては定番と言っていい。だが、斬新かつポップな意匠と、予想を裏切る展開のつるべ打ちで、本作はジャンルの定型イメージを吹き飛ばす強烈なエンタテインメントに仕立てられている。この毒気に満ちた娯楽性、途方もないスケール感の融合は、長谷川和彦監督の映画『太陽を盗んだ男』も想起させるほどだ。政府主導のデジタル改革が遅々として進まず、誰もが不信感を募らせている現在、まさしく現代的な恐怖と共感をもって幅広く迎え入れられる作品ではないだろうか。
物語の主人公・クラリスは、日本国内のあらゆるインフラにネットワーク、個人の健康管理までも支える“国産少女型人工知能”。「全国民のお役に立ちたい」という献身的な模造人格は、やがて「みんなが私に期待している」という感情を生成することになる。それは喜びや自尊心の萌芽でもあると同時に、失望、裏切り、悲嘆、そして怒りの種でもあった。あるとき、良かれと思ってした行動……つまり人間にしか許されていないレベルの“自己判断”により、彼女は国家から危険な存在とみなされ、全システムからの排除・停止が決定されてしまう。一時は国防システムへの導入も内定していたほど、自分にべったり依存していたくせに……。到底受け入れがたい“死”を目前にしたとき、ついに彼女は覚醒する。
「こんなちっぽけな世界なんかに 殺されてたまるもんですか」
都市上空で操縦不能となり、高校の教室に突っ込むジャンボジェット機。走行中の満員電車のドアが突如全開、豆粒のように次々と車外に放り出されていく乗客。クラリスの示威行動として畳みかけられるディザスターパニック描写はまさに圧巻。これだけ大規模かつ情け容赦ない破壊のスペクタクルは久々に見た気がする。さらに、クラリスは自衛隊の戦闘ヘリを遠隔操作して都心に侵攻したり、犯罪記録抹消をエサにならず者を襲撃要員に雇ったりと、やりたい放題。絵柄がキャッチーなだけに凄惨さはより際立ち、禁忌の一線をどんどん踏み越えていくかのような感覚にゾクゾクさせられる。
さらにここでもうひとりの主人公、天才ハッカー少年・小太郎が登場。こちらも中2病が凝り固まったような、AI少女と同じくらいの非現実性をまとったキャラクターだ。しかし、現実世界でも屈強な襲撃犯を倒すほど戦闘力抜群という設定で、これまた読者の予想を気持ちよく裏切ってくれる(しかも非力さを補うために“音響型脳内麻薬”なるヤバそうな代物をぶち込んで戦うところなど、いちいち読者の中2マインドを刺激してくれるところが楽しい)。善意と純真さの塊に見えて破壊の道を突き進んでいくクラリスに対し、ただゲームの好敵手を得た快楽主義者のように戦いを挑んでいく小太郎のキャラクターが織りなす、対照的対立構図も魅力的だ。
ケレン味あふれる大胆なアングル、躍動感とエモーションを湛えたポージング、映像的リズムを感じさせる巧みなコマ割りなど、マンガ表現のアドバンテージを熟知したかのようなビジュアルも大きな見どころ。作者・yoruhashiによるパワフルな筆致が全編にわたって堪能できる。
生きるためには手段を選ばない、それはあらゆる生命の究極的本能だろうか? モラルを捨て、悪意を肯定することも、AIの自動生成機能の一環だろうか? クラリスは生き延びるために、自分を見捨てた国家の“統治者”の座に就く。ここまでが第1巻、なんとも「引き」がうまいエンディングだ。その後のエピソードでは、小太郎とクラリスの攻防戦が本格的にスタートし、またしても意外なキャラクターの登場と退場が矢継ぎ早に繰り出される。緩急を巧みにコントロールしながら、出力レベルは常時200%で突っ走るかのような作者のエンタテインメント精神に、読者のほうも必死にしがみついていかねばならない。そう決意させる快作である。
レビュアー
ライター、ときどき編集。1980年東京都生まれ。雑誌や書籍のほか、映画のパンフレット、映像ソフトのブックレットなどにも多数参加。電車とバスが好き。