なんだこれは!
「とても上手で、よい能は、ふしぎと眠くならないんです」。大学で専攻した演劇学の講義で、日本演劇史の教授がポロッと教えてくれた。たしかに「なんだこれは!」と衝撃をくらうパフォーマンスってそんな感じだ。テンポは関係ない。全身が目玉になるというか、皮膚と骨に電気が走る。そして意味不明に涙が出る。
脳内大爆発! まさにこんな状態だ。とくにダンスを見ると私はこうなる。言葉や知識や教養をすっ飛ばしてそれはやってくるのだ。
中村勘三郎、マリ・アニエス・ジロー、ニューヨークシティバレエ団のアンサンブル、あとアメリカのダンスバトル番組で踊りまくる16歳のゼンデイヤもすごかった。
あのすごさって一体なんなんだろう。アスリートの凄みともまた違う。
そう、この感じ。「よい」と吹っ飛ばされるあの感じ、あれは何?
『ワールド イズ ダンシング』の主人公“鬼夜叉”も、同じ問いを繰り返す。
鬼夜叉が生きるのは室町時代。彼の父親は猿楽の一座「観世座」を率いる“観阿弥”だ。芸を生業とする家に生まれ、のちに“世阿弥”と呼ばれ、能の始祖となる少年が「芸」と「よさ」を追っかけまくる。
少年の世界がグイグイ拡がっていく物語だ。
なぜ人は舞うのか?
12歳の鬼夜叉は父・観阿弥と舞の稽古に明け暮れているが、舞や芸のことが理解できないでいる。
たとえば、空を飛ぶ鳥は鬼夜叉にとって大変クリアに理解できる存在だ。その形と動きと仕組みが理にかなっているからだ。では人の形は何のためにあるのか? 芸のため? いやまさか。
人の身体性とパフォーマンスとのあいだの結びつきがちっとも理解できない。
こんなふうに「理解できない」あいだですら、鬼夜叉の目がキラッキラなのがとてもいい(大人の目はもっと重たくツヤのない描写だ)。根源に手を突っ込んで、結び目を見つけて、自分の手元に引き寄せたい欲望に満ちている。12歳、ポテンシャルの塊。
この艶々(つやつや)の髪に包まれた頭の中で疑問がとぐろを巻いているさまを読むのが楽しい。
こんなに冴えた観察眼をもってしても「理解できない」ものが、彼の人生が始まった瞬間からずっと覆い被さっている。それは孤独なことだろうなと思う。
父親は芸のことで頭がいっぱいだし、こっちはやりたいのかやりたくないのかすら謎。息苦しい。
芸や舞なんて不要不急の最たるもので、存在しなくたって人は生きていけるのでは? なのに不作を理由に乱舞が自然発生しちゃったり、とにかく人は踊りまくる。「なんでそんなに踊りたいわけ?」と幼い鬼夜叉は理解に苦しむのだ。
身体があるじゃないか
疑問とむなしさで煮詰まりきったある日、鬼夜叉はある女と出会う。ぼろぼろの小屋に暮らすその女は、小屋のなかで一人きり、うめき声のような歌を口ずさみながら白拍子を踊っていた。
ものすごい踊りを観てしまうと「ああ化け物がいる」と感じるが、このページにいるのも化け物だと思う。このとき鬼夜叉が感じる「よさ」の描写がとても好きだ。実際に目の当たりにして鬼夜叉と同じ気持ちになってほしい。この世の全てをぶち抜いている。
この日を境に、鬼夜叉は「よさ」の正体と「舞」の世界にのめり込んでいく。
自分もあんなふうに「よさ」を舞台の上で表現できるかもしれない、と願うのだ。では、それを顕(あらわ)すには何が必要なのか? 才能か? あのみすぼらしい女には、父や自分にはない才能があるのか?
ここで鬼夜叉は「身体」と出会う。冒頭で鬼夜叉が「理解できない」としていた人の形と再び向き合うのだ。
自分の身体を使って、舞う。身体は、みすぼらしい遊女と鬼夜叉のそれぞれが等しく備えている唯一のものだ。彼女には身体しかない。誰からも名前を呼ばれない女と鬼夜叉とのやりとりが痛くてしょうがない。
最初から最後まで鬼夜叉の目はみずみずしく輝いているが、彼が自分の舞を探求して疾走感が増すにつれ、その目の美しさに闘気が含まれてくる。
よい。教科書の中で出会う世阿弥は静かでクラシックな存在だったけれど、よくよく考えたら日本のダンスの基礎を築いて「風姿花伝」を書いた男だし、彼がいた室町初期といえば金閣寺が建てられた時代でもある。もうギラギラだ。熱いに決まっている。
レビュアー
元ゲームプランナーのライター。旅行とランジェリーとaiboを最優先に生活しています。