男性が女性に、女性が男性に。肉体が入れ替わったとき、心は以前の性に寄るのか、新しい身体に寄るのか。自分とは一体何者なのか。
今回ご紹介する『個人差あります』は、肉体の性別が突然入れ替わる「異性化」という現象がまれに起きる世界を描いた漫画です。
『喰う寝るふたり 住むふたり』という、同棲カップルの日常と成長を描いた素晴らしい漫画の著者と同じ、日暮キノコ先生の新連載。人の心のちょっとした変化や、そこから変わって行く日常を丁寧に描く作家さんです。
主人公はごくごく普通のサラリーマン・磯森晶。32歳、妻あり。仕事は新参100円ショップの商品企画部。会社では先輩の雪平と上手く仕事を進めています。
ある夜。晶は異常なほどの頭痛に襲われます。リビングのソファでのたうち回るくらいの痛み。異変に気付いた妻の苑子が救急搬送を頼み病院へ。
病院ではすぐに緊急手術が行われますが、医師からは「脳の出血で、腫れも引かない」と厳しい言葉が。
晶の母も妻も、突然の医師からの言葉に呆然とし、晶に何が起きているのかすぐに受け入れられない状況です。そんな診察室に手術室から起き上がってやって来たのは晶本人でした。
全員が驚き、晶を見ると何かが違う……。身体だけが女性になっていたのでした。
「女性として生きる」ことを決意した元男性
晶たちの世界では、ごくまれに瀕死の状態から蘇生するとき、突然性別が逆になってしまう「異性化」という現象があります。珍しい現象ですが世界では事例があり、本人である証明書や社会復帰の手配など、晶の国でも異性化した人への特別な対応が用意されていました。
女性として生きることを覚悟をする晶。夫が同性になってしまったしっかり者の苑子。ふたりで協力して暮らしていくことになります。苑子は「女性としての先輩だから頼ってほしい」と思い、晶は妻の支えに心を許します。
晶の日常も世界も変わりませんが、すべてが女性としての初体験になります。小さくなった身体、たわわな胸、弱くなった力……自分に起きたさまざまな変化に戸惑います。
苑子に支えられながら、女性用の服や下着(ブラジャー)を買いに出かけるなど、未体験ゾーンをふたりで乗り越えていきます。
肉体は女性になったけれど、心はまだまだ男性のまま。自分ではわかっていても、世の中は晶を「女性」として見て、女性として接します。だんだんと、自分は「女性なんだ」と自覚したり、心の感じ方が変化していきます。
この漫画はただ男性が女性になったという物語ではありません。描かれているのは「こう感じている」という晶の男性視点と女性視点の対比がテーマになっています。どちらが良い悪いではなく、同じ出来事にも大変なことや嬉しいことがあり、いろいろな性別や感じ方があるよ、ということ。
性別ではなくひとりひとりの「人間」を見て考えたくなる
苑子のサポートで晶は職場にも復帰します。通勤シーンの描写では、主人公の晶の描かれ方が「以前」とは違います。
<男性だった頃>
<女性になってから>
どちらも同じ満員電車ですが、男性時代は痴漢のえん罪対策として、手を上げて乗っています。女性になってからはぎゅうぎゅうに押しつぶされてしまいます。
大変な通勤ですが、それぞれ「大変さは違う」と考えさせてくれる描写だなぁと思って読んでいました。同じ人物で描いているからこそ、とくにわかりやすい表現でした。
漫画全体を通して、晶は男性としての価値観を持ったまま、「女性を体験」していくエピソードが詰まっています。たくさんの取材を重ねたのではないでしょうか。唸るほど深いテーマを漫画でかろやかに描き、ストーリーが続きます。性別は男性か女性かだけでは分けることができませんが、この漫画が伝えようとしているのは、大きく分けて「男性」と「女性」という2つの性だけでもこんなに多様性があり、感じ方も人それぞれだということ。最終的に「そもそも性別の問題なのか?」と教えてくれているなとも感じてきます。
セクハラや痴漢は性別関係なくしてはいけないし、不快感があるものに「男だから」「女だから」で許されるものはない。異性間だから同性間だから本音が言えるのでもなく、妻だから夫だからその役割をしなければいけないわけではない。
性別ではなく「人間とは」という問題を考えるために、まずは両方の性別の「体験記や感じ方を知ってみよう」「相手の話をちゃんと聞いてみよう」という部分に焦点を当てているような気がしました。
カップルで読むのにおすすめな1冊
この漫画は、恋人同士や夫婦で一緒に読んでみるとすごくいいなぁのではと思います。「え? 相手はこう感じているのかも!?」「ええ? こんな風に暮らしてるの!?」と新しい視点が見つかるかもしれません。見落としていたモノの見方が、やがて、新しい価値観や新しい暮らし方につながるような気がします。
そんな風に読んでいると、この漫画のタイトルが『個人差あります』であり、この言葉の深さに気付きました。すごい漫画だなぁ、と。
最後に私がこの漫画の中で好きなシーンをひとつご紹介します。
雪平先輩は男だから女だからではなく、「磯森晶」をひとりの人間として接し、大切にしています。そういう目に見えない想いや優しさが、ちゃんと晶には伝わっており、それを感じている表情です。
この世界。どんな人であっても「たったひとりのアナタ」という大切な人間であり、多様性を認めあえ、誰からも優しくされ、誰にでも親切にして過ごしていい場所でありますように。
レビュアー
AYANO USAMURA Illustrator / Art Director 1980年東京生まれ、北海道育ち。高校在学中にプロのイラストレーターとして活動を開始、17歳でフリーランスになる。万年筆で絵を描くのが得意。本が好き。