だめな男を見ると興奮する。ふだんは絶対に自分の視界には入れないのに、ときどき「不道徳の匂い」に目が釘付けになる。弱かったり卑怯だったりアタマが悪かったり、複合型だとなお良い。でも『Deep Love Again』の男は激烈にどうしようもなくて、不気味で直視しづらい。
なんなんだこの顔は。いつものノリで「屑オブ屑」と吐き捨てることもできず、やがて寒気がしてリアルに本を閉じてウロウロ歩いてしまった。
『Deep Love』をおぼえている元・女子高生たち
2000年代に女子高生をやってた人のうち何割くらいの子がケータイ小説の『Deep Love』を読んだのだろう。援助交際も薬もDVも性病もなんでもありの内容だった。本作の帯にかかれた「累計840万部」という数字を考えると、興味をもった人や必要とした人はものすごく多かったはずだ。(東京ドームが150回以上満員になる)
『Deep Love Again』は、『Deep Love』シリーズの最新作。18年前の女子高生は今30代半ばくらい。本作はその人たちにむけた世界観になっている。
『Deep Love』といえばヒロイン"アユ"なのだが、彼女はすでに他界している。そして、アユを愛していた"レイナ"と"義之"が本作に引き続き登場する。
でも主人公は彼らではなく、"楓"というシングルマザーの女性。27歳の彼女がどういう人生を送っているかが描かれている。
闘病中の娘を女手一つで育てる楓は、娘の治療費を稼ぐために風俗嬢として働く。(そしてなぜかアユそっくりの容姿)
風俗の仕事を掛け持ちし、鬼のように出勤し、客からもらったエルメスだって受け取ったその足で質に入れる。過激さについては、安心していい。私たちが期待するよりもちょっと上の世界が待っている。でも『Deep Love Again』で見るべき点はそういう過激さや不幸なところだけじゃない。
"ゼロ距離"で語られる"壮絶な人生"
『Deep Love』を皮切りにケータイ小説がワッと世に出たころ、外野は外野でザワついたのをよく覚えている。
不幸で不幸でしょうがない女の子たちの過激な物語や文体を大人が酷評するのはとても簡単だったし、文学かぶれのサブカル少年少女(むかしの私)が同じように軽蔑することも簡単かつ気持ちよかったのだと思う。でもそれって寿司屋に行って「ハンバーグがない」とキレるような意味不明さと同じで、見りゃわかるだろ看板を読めという話だし、つまり芸がなさすぎる。
『Deep Love』シリーズや『Deep Love Again』が見せてくれるのは、孤独な女の子の壮絶な人生だけじゃなくて、徹底した「距離のなさ」だ。
楓は治療費を稼ぐことだけを考え必死に生きて、文字通り身を粉にして働いている。全身ガリガリ。
こういうちょっとしたシーンの生々しさが重い。
そんな楓を心配し、何かと世話を焼く男がいる。風俗街で食堂を営む"秀人"だ。
この二人のラブストーリーがとても奇妙で、まだ頭の中で整理がつかない。
秀人は事あるごとに「楓の心理」に言及するのだ。他人が掘り返していい話じゃないだろと思う。で、負けず劣らず楓も自分で自分の心に穴をあけまくる。
ここまで自己分析と言語化ができるなら現状もっとマシになればいいのに、と読んでるこちらは思うのだけど、楓と秀人には「距離」がない。
こんなふうに自分で自分の尻尾を飲み込むような瞬間がずっと続く。「愛を知らないあたし」が「愛」をさがして、自分で考えた自分の心理をむき出しにしながら、自分で自分を追い詰めるのを自分一人で眺める物語なのだ。
世界には自分しかいないし、なんなら楓には世界すらないように感じる瞬間が多い。何が起きても、娘や恋人がいても、なぜか一人ぼっち。初期の浜崎あゆみが繰り返し歌った「底なしの孤独感」を思い出す。この徹底した厭世観と一人ぼっちさと主観に怯むから、私は本作のとても奇怪で地獄のような「だめ男」に興奮できないのかもしれない。
かつて『Deep Love』を読んでいた人は楓の物語の続きが絶対気になるはずだし、あの平積みされた表紙を横目で見ていた人も、きっと本作のゼロ距離感が描く「彼女たちのリアル」に生唾をのむはずだ。
レビュアー
元ゲームプランナーのライター。旅行とランジェリーとaiboを最優先に生活しています。