この漫画を読むと、全てを変えてしまった「あの日」、東日本大震災以降のことを思い出す。ニュースで流れる被災地の状況や原発の動向を呆然と見つめ、この世の終わりのように絶望的な気持ちを味わった人は少なくないだろう。
3.11が日本人の心に残した爪痕は大きく、しかし、少しずつ傷が癒えていくように、私たちはふたたび「普通の日常」を生きるようになったのだ。そう、人間とは悲しみを抱えながらも、生きている以上は生きてゆく、そんな逞しい生き物なのである。
この漫画は、ただ単に震災の悲しみを表現するシリアス漫画とは違い、SF的な設定で「もしもの世界」を描いている。深刻になり過ぎず、少し笑えるエピソードも盛り込みつつ、今もまだあの出来事と共に私たちが生きていること、そして、生きていくことについて描いている。そんな気がするのだ。
舞台は、茨城県井戸市。2020年に発生した第2次関東大震災の傷痕をそこここに残したこの街は、謎の巨大隕石が落ちたことで、ふたたび被災した。それから2ヵ月後、女子高生、さよと夜目子が普通に登校するところからこの物語はスタートする。
震災で家族を亡くした者、放射能への不安や農作物への風評被害、電力不足など、まさに3.11と同様の背景が描かれているが、しかし、現実とは一つだけ違うところがある。
この街を襲った隕石災害による死者は、隕石に潰されても起き上がり、その全員が、「多少の不備」があってもまた普通に社会に戻ったのだ。政府発表によれば、「隕石には何らかのウィルスが付着し、死体に入り込むことによって身体の機能を回復させ、魂をも復元した」という。
つまり、この事件の死者513人は、「心あるゾンビ」として日常に帰ってきたのだ。
体温や脈拍はなく、頭の一部が欠けたり、目玉が取れそうになったり、頬の傷跡から歯茎が露出していたりする彼らは“帰還者”と呼ばれ、以前と変わらない人格を持ち、以前と同じ日々を送っている。パロディのような日常だ。
しかし、この物語は、「なら良かったじゃん」的な単純な話ではない。
さよと夜目子の仲良しである女子高生・はる美もまた、帰還者の1人だ。目玉が飛び出るなど、ゾンビとして生きていく不便さはあっても、彼女は持ち前の明るさを失わない。3人でプリクラを撮りに行けば、見知らぬおっさんから「人間ぶりやがって。クソゾンビ」と罵られる酷い出来事もある。
それでも彼女たちは、めげることなくおっさんを撃退し、いつものようにアイスを食べておしゃべりする。そのような厳しい現実の中に生きていても、逞しく女子高生ライフを謳歌しているのだ。
一方、ゾンビなはる美をかばう、しっかり者で正義感の強い夜目子にも、震災の時に父親が津波にさらわれたという背景が。
いまだ整理のつかない思いを抱えた彼女は、ふとした出来事から、帰ってこない孫のことを諦められず、あえて現実から目を逸らして生きる老婆や、震災に巻き込まれた同級生の中で自分だけが生き残ってしまったことに苦しむ青年などにも関わっていく。
そうした様々なエピソードに、「人は誰しも普通に暮らしながら、その裏側に様々な悲しみや苦悩を抱えているのだ」と、あらためて実感させられる。そして、震災による傷跡が薄れつつある今も、拭いきれない思いがそこに残り続けていることを痛感するのだ。
誰もが生きていることの意味を考えたであろう、あの3.11から時が経つ今。当たり前の日常の中、忘れかけていたこと。この漫画は、「もしもの世界」を生きる女子高生や様々な立場の人の目線を通じて、「もしも自分なら」を考えさせてくれ、そして、人間が持つ弱さと逞しさ、その深さを実感させてくれるだろう。
人生って、おとぎ話のように「めでたし、めでたし」では終わらない。普通なら被災シーンは物語のクライマックスであり、帰還者たちはそこで人生を終えていたはずなのだ。彼らは「物語のその先に続く人生をどう生きていくのか」を教えてくれる“架空の生き物”なのではないか。人間とは、希望をなくしても、生きている以上は生きていくもの。そんな深く切なく逞しい“生”へのラブソングを生き残った人々に伝え終えたその時、彼らは“かくう生物”として、幻のように消えてしまうのかもしれない。
レビュアー
貸本屋店主。都内某所で50年以上続く会員制貸本屋の3代目店主。毎月50~70冊の新刊漫画を読み続けている。趣味に偏りあり。
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