1996年に連載を開始して以来、『カイジ』シリーズは長期にわたり多数の読者の支持を集めてきました。サブタイトルこそ「賭博黙示録」→「賭博破戒録」→「賭博堕天録」と変わっていますが、これが連続したストーリーであることを疑う者はいないでしょう。
『カイジ』が人気シリーズとなった理由はいくつもありますが、ひとつはこの作品が独特の言葉を持っていたためです。
勝ったから賞賛される。よく戦ったからではない。
勝つのは、知略走り、人を出し抜ける者である。
敗者は底辺を這いずり回るしかない。
友情でもらえるものは旅先からの絵はがきぐらい。本当に欲しいものがあるとき、友情はまるで役に立たない。
これは、学校でも家庭でも、マンガをふくめたエンターテインメント全般でも、ほとんど語られることがなかったことでした。にもかかわらず、誰もが「真実だ」と思えることでした。『カイジ』はそれをストレートに表現し、現実の姿を描いてみせたのです。
これが『カイジ』の人気の理由のひとつであることは、『カイジ語録』や『カイジ箴言』など、この作品の厳しい言葉を抜き出した書籍が何冊も出版されていることでもわかります。
もっとも、主人公のカイジは、こうした言葉を正しいものとは認めてはいません。いや、正確にはこれらの価値観に同意し、みずから語り、考えもするですが、徹底することができない人である、というべきでしょう。
たとえば、Brave men roadと名づけられた鉄骨渡り(人間競馬)のとき。
この勝負で勝つためには、先行者の背中を押し、突き落とすことによって自分がトップに立たなければなりません。カイジはこれと同じものが、社会のあらゆる場所で見られるものだということを悟ります。
受験でも就職でもポスト争いでも、誰かを追い落とすことができなければ自分の座は得られません。人は多かれ少なかれ、誰かの背中を押し、突き落とすことでのし上がっているのです(キャリアアップって要するに、誰かを突き落とすってことです!)。
にもかかわらず、カイジは先行く人を押すことができませんでした。
人間には別のやりかたがあるはずだ。誰かを押しのけて自分の場所を作るなんて間違いだ。オレはそんなしくみに荷担したくない。押さなきゃ押されるとしても、押さない。彼はそう主張しました。
あえて言うなら、これはないものねだりをしているのです。カイジだって他の方法を提示できるわけはないのですから。……結果、彼は敗れてしまいます。
彼はこれまでも幾度となく戦いに敗れていますが、徹底できないこの性癖──「甘さ」といわれることもある──がもたらしたものであることがとても多くなっています。
「24億脱出編」でも印象的にふりかえられている兵藤和也は、そんなカイジの思想を否定する人物でした。
人がギャンブルをするのは、一攫千金を狙うからです。ところが、和也にその必要はありません。生まれながらに富を備えている彼には、あえて危険な橋を渡らねばならない理由がありません。
したがって、和也が勝負をするのは、千金を得たいからではありません。カイジの思想(甘さ)が、がまんならないからです。和也はカイジを「虚仮(こけ)だ」と語っていますが、勝負に勝つことによって、その思想がニセモノであることを証明しようとしたのです。言い換えれば、和也との勝負は、「思想の勝負」でした。
一方、カイジは和也との出会いを通じて、得がたい友を得ます。ふたりの外国人、チャンとマリオです。彼らは「魂や生命を業火に焼かれようと」友情を捨てませんでした。「そんな人間、世界中探したっていない」「宝石のようにまぶしく輝いている」カイジはそう語っています。
カイジほど、幾度となく友情を交わし、友を信じ、そのたびに裏切られてきた人はありません。そのくせ彼は、絶対に人間不信には陥らないのです。根本のところで人を信じることをやめようとはしません。
カイジは和也との戦いに勝利し、みごと勝ち金24億円を手にしました。しかし、これはあくまで途中経過にすぎないのです。和也との勝負に勝っただけで、勝ち金はまだカイジのものになったわけではありません。和也の背景にある帝愛グループとの契約により、カイジの命はカイジ自身のものではありません。たとえ殺されたとしても、不審死であると判断されることはありません。帝愛はすでに墓さえ用意しているのです。したがって、勝ち金を強奪してカイジの命を奪い、勝負自体をなかったことしても、帝愛にはまったく問題がありません。
カイジは言っています。
「チャンとマリオが、勝ち金を持って、無事に祖国に帰ったとき勝負は終わる」
そうでなければ、勝ったことにはならない。カイジはそのことをよく知っているのです。
しかも、敵は帝愛だけではありません。24億という大金を持っていることに、警察が不審を抱かないはずはありません。言ってみれば周囲全員が敵です。
勝ち金の分け前は、チャン6億円、マリオ6億円。そんな大金を、どうすれば怪しまれずに海外に持ち出すことができるのか。なにしろ、6億円は札でベッドが作れるほどの量なのです。越えなければならない関門の多さを想像すると、まったく不可能にさえ思えてきます。
カイジがいわゆるギャンブルでない勝負をするのはこれがはじめてのことです。
見るからに異様な3人組、カイジ、チャン、マリオ(和也はこの3人組を「貧しきアジアの3人のクズ」と呼んでいます)に勝機はあるのか。
連載開始してすでに20年以上。『カイジ』は今、これまで開けたことのない新しい扉を開こうとしています。
レビュアー
早稲田大学卒。元編集者。子ども向けプログラミングスクール「TENTO」前代表。著書に『メールはなぜ届くのか』『SNSって面白いの? 』(講談社)。2013年より身体障害者。
1000年以上前の日本文学を現代日本語に翻訳し同時にそれを英訳して世界に発信する「『今昔物語集』現代語訳プロジェクト」を主宰。https://hon-yak.net/