小林まことの『柔道部物語』は、『あしたのジョー』(高森朝雄・ちばてつや)とならび、スポーツマンガの最高傑作のひとつです。個人的には、20世紀のマンガ表現が到達したもっとも高い頂のひとつだと考えています。
以前こちらでレビューを書かせていただいたとき、自分はこのように記しました。
「奇跡のような作品である」
天の采配、神の見えざる手、仏の導き。なんと呼んでもいいのですが、この作品はそうした人智の及ばざる力・形而上学的な力の加勢あって成り立った作品です。同時に、それを引き寄せてしまう作家・小林まことの胆力の強さにも、瞠目しました。それらすべてひっくるめて、「奇跡のような作品だ」と語ったのです。
本作『JJM 女子柔道部物語』もまた、そうした人智の及ばざる力で成り立った作品です。
ただし、それをもっとも強く感じているのは、ひょっとすると作者かもしれません。
この作品を執筆するまで、小林まことはマンガを描いていませんでした。
「引退していた」彼はそう語っています。
芸能人やスポーツ選手とは異なり、マンガ家は引退会見をおこないません。したがって、ほとんどの読者はこの事実を知ることができませんでした。
しかし、周囲の人々──知人友人家族および関係者はそうではありません。当然、引退の話は聞いていたでしょうし、これを重く受け止めてもいたはずです。なぜなら、「引退」とは「もうマンガは描かない」という宣言だからです。
多くの人がこの決断を思いとどまらせようとしたことでしょう。同時に、気づいたはずです。自分が引き留める言葉を持っていないことに。
冒頭で述べたとおり、小林まことはマンガの歴史に残る大傑作を描いた作家です。ヒット作にもめぐまれ、誰もが知るマンガ家のひとりとなりました。「引退の理由」はいくつかあったと思われますが、もっとも大きいのは「マンガにたいする情熱を失ってしまった」ことだったのではないでしょうか。
「以前ほどの熱意をもって作品に取り組むことはできない」
そう言われて、返す言葉をもっている人はいませんでした。すくなくとも、小林の心に響くような説得力をもって言葉を返せた者は1人もいなかったのです。
引退前の最後の作品となったのは『長谷川伸シリーズ 瞼の母』ですが、今思えば、あれが連載されているころから、引退は決まっていたのかもしれません。
『瞼の母』の主人公は東三四郎でした。小林のデビュー作の主人公であり、続編もふくめ、もっとも多く描かれたキャラクターです。最後の作品の主人公として彼以上の適任はないでしょう。
『瞼の母』以降、小林まことがマンガを描くことはありませんでした。
本作の第1話は、それから約1年半後、引退の決意を反故にして制作されました。
「前言撤回は男らしくない。みっともよくない」
そんな意識は当然、あったことでしょう。それまで、誰にどんな言葉で引き止められても、NOと言い続けてきたのです。また、進退に関する決定をくつがえすことにも抵抗がないはずはありません。
にもかかわらず、彼は引退を撤回し、本作の執筆をはじめました。
「もう我慢ならないと思った。こんな面白いものを無視できない」
連載に先立ち、小林はそう語っています。
本作の原作者は恵本裕子。アトランタオリンピック柔道女子の金メダリストです。彼女と出会い、話を聞いたことが、この作品の誕生につながったといいます。マンガにしようと言い出したのは小林だそうです。
恵本と小林の間で、どんな会話が取り交わされたのか。それはわかりません。
しかし、小林の脳裏に、「それまで誰も描いたことのない作品」「自分以外は誰も表現できない作品」が生まれたのはほぼ、まちがいありません。そうでなければ、わざわざ引退宣言をくつがえして、復帰を果たそうとはしないでしょう。
2人の交流は、恵本から小林にフェイスブック・メッセージが寄せられたことがはじまりだったといいます。
「漫画のファンでした。おかげで、五輪で金メダルを取れました」
たくさんのファンメッセージの中のひとつだったそうです。
驚いたことに、彼らは意外なほど近くに住んでいました。
メッセージのタイミングも、2人が近所に住んでいたことも、示しあわせたわけではありません。いわば偶然です。しかしこれが異なっていたら、本作は生まれてなかったと思われます。
人智の及ばぬ何かの力が働いている。そう感じるのは自分だけでしょうか。
現在、『JJM』のコミックスは3巻まで発売されていますが、主人公の神楽えもはまだ高校1年生です。彼女が金メダルを獲得するまで描かれるとすれば、長期連載になることが予想されます。
ここには、従来のマンガには表現されていなかったものが描かれています。まだそれは完全に姿を見せてはいませんが、その片鱗はのぞかせつつあります。
『JJM 女子柔道部物語』。ああ、こんな展開があったなんて予想できなかった。なんて幸福なんだろう! 神よ仏よありがとう。そして恵本・小林両先生、本当にありがとう。
レビュアー
早稲田大学卒。書籍編集者として100冊以上の本を企画・編集(うち半分を執筆)。日本に本格的なIT教育を普及させるため、国内ではじめての小中学生向けプログラミング学習機関「TENTO」を設立。TENTO名義で『12歳からはじめるHTML5とCSS3』(ラトルズ)を、個人名義で講談社『メールはなぜ届くのか』『SNSって面白いの?』を出版。2013年より身体障害者になった。
ブックレビューまとめページ:https://goo.gl/Cfwh3c