本書は、老年にさしかかってからの代表作「猫楠」はじめ、「怪傑くまくす」「怪少年」「てんぎゃん」など、水木しげるが南方熊楠を題材に描いた作品をまとめたものです。
熊楠についてよく知らない人は、青空文庫で作品を見るのがよいでしょう。すさまじい知識量と、まさにオモチャ箱をひっくりがえしたようにまったく整理せずにそれを披露した文章の数々に、めまいに似たものを覚えるはずです。残念ながらここで見られるのは熊楠のもっとも優れた仕事ではないように思いますが、彼の怪人ぶりを知るにはじゅうぶんでしょう。
柳田国男は熊楠を評して「日本人の可能性の極限」と語っていますが、まったくそのとおりだと思います。
水木しげるは実在した人物をマンガにすることが多かった作家です。ヒットラー(『20世紀の狂気 ヒットラー他』)や近藤勇を描いたものもありますし、その名も『神秘家列伝』という、東西の神秘家の伝記を描いた連作もあります。
しかし、南方熊楠ほど何度も描いた人物はありません。量的にももっとも多いでしょう。「怪傑くまくす」は1973年の作品ですし、熊楠を描いた、まだ陽の目を見ていない作品──いわゆる未発表作品です──もかなりあるといいます。おそらく、熊楠を描く(周知する)ことを一種の使命のように感じていたところもあったのではないでしょうか。
なぜ熊楠に惹かれるのか。そう問われた水木は、次のように語っています。
風変わりな人だったからね。好きだった。(中略)普通でないですよ。例えば、フンドシもしないで真っ裸で生活していたとかね。それでいて、頭はバカにいいんです。
熊楠は数ヵ国語(一説によれば十数ヵ国語)を解することができました。彼の初の論文はイギリスに今でもある科学雑誌『ネイチャー』に英語で発表されていますし、多くの本に原書で接しています。
「猫楠」はこのエピソードを敷衍(ふえん)することにより、熊楠が猫語を話せたとして、猫(猫楠)を案内役として熊楠を描いた作品です。(なんていいアイデアだ!)
アメリカ・イギリスなど長い海外生活から帰った後の熊楠を描いており、舞台のほとんどは田辺・那智・高野山など、和歌山県です。ほぼ1年間にわたり、今はなき青年誌「ミスターマガジン」に連載されています。
ここでは、この作品を中心に、水木と熊楠、そして「もうひとりの人物」について語っていきましょう。
本作で誰にとっても印象ぶかいのは、那智の山中で熊楠(と猫楠)が幽霊の歓待を受けるシーンでしょう。これは基本的に水木の創作ですが、ここで熊楠が語っていることは、熊楠が書き残していることをほぼそのまま使っています。
熊楠は生涯、あの世のありように強い興味を抱いていました。粘菌を研究する理由も「涅槃経」をひきつつ、「この世」と「あの世」の関係を見られるからだ、と述懐しています。夢で幽霊に導かれたとか、ろくろ首になったとか、不可思議なエピソードにも事欠きませんでした。幽霊と幻覚の相違についてもかなり詳細に語っています。
熊楠はこうした不思議な体験を、「脳力」が高いせいだと語っていました。「脳力」とは『猫楠』にも印象的に使われた熊楠の造語です。
水木は熊楠の怪人ぶりを、おもしろおかしく描いています。『猫楠』に表現された熊楠に暗さはなく、また熊楠の文章にも暗さはありませんが、水木は気づいていたはずです。「脳力」の高さは狂気と隣接しているということを。
猫楠はゴッホと熊楠を比して次のような意味のことを語っています。
ゴッホは絵筆を置くと精神が錯乱した。だから描かずにはいられなかった。あの常人にはとてもできない色の配列はそうして生み出されている。熊楠の研究も同じだ。
「猫楠」はやがて、「大いなる哀しみ」として熊楠の息子・熊弥の発病を語ります。作品ではふれていませんが、遺伝的なものも大きかったのでしょう。すくなくとも、熊楠がそう考えなかったはずはありません。「猫楠」の物語の中で熊楠が涙を流すのはここだけですが、その涙には「自分の子だから」「自分の血には狂気が入っているから」という思いが含まれていたはずです。
(なんて悲しいんだろう! 涙せずにはいられませんでした)
東大予備門(夏目漱石や正岡子規、日露戦争で活躍した秋山真之などがいた。全国からエリートが集められた)を中途退学していることも、家庭の経済事情にさからってアメリカ留学したが続かず、イギリスに居を移していることも、「脳力」が高いせいだったと思われます。彼は結局、集団になじむことができなかったのです。
熊楠の怪人ぶりを表すエピソードとして陽気に紹介された「自在にゲロを吐く」という特技にしても、おそらくは脳の異常によるものでしょう。
熊楠が怪人だったのは、脳のしくみが常人と異なっていたためです。彼はこの異様な頭脳を備えながら、普通の人間と同じ世界に生きざるを得ませんでした。これが、多くの不幸(と本人は思っていた)を生み出していきます。
最終回で、猫楠は「自分は幸福観察猫である。人間の幸福の観察者として大昔から人間に混じって暮らしている」と明かすと同時に、次のように語っています。
熊あんは自分ほど不幸な者はないと思っていたフシがあるが、わしはそうとは思わない。
自分も猫楠に同感です。彼は熊あんが不幸でなかった理由を語ってくれませんが、あえて述べるならば、ふたつあるように思います。
ひとつは、「好きなことしかやらなかった」こと。
「高い脳力=病」のせいで、熊楠はイヤなことはできませんでした。学校も続かなかったし、たとえ極貧にあえいでいても、実弟に侮蔑されても、働くということはしなかったのです。
人はときに、意に染まないことをしなければなりません。
水木しげるもこのことからは逃れられませんでした。プロのマンガ家として、描きたくないものを描かなければならない局面はきっとあったことでしょう。また彼は、南方で従軍し、負傷しています。好きこのんで兵隊になったわけではありません。
もうひとつ、熊楠の人生を幸福なものであると考えたい理由があります。
晩年、昭和天皇への「ご進講」の機会を持てたことです。
当時、天皇はカミサマでした(「猫楠」の表現)。その天皇に、無位無冠の在野の学者が捧げ物をする。「ご進講」はこれ以上ないほど名誉なことでした。
ただし、熊楠にとっての幸福は、そんな世間的なものではなかったように思います。
昭和天皇が生物学者だったことは有名です。皇居内に研究所を設け、論文も数多く発表されています。北一輝に「クラゲの研究者」と揶揄(やゆ)されるほど情熱を傾けていました。「ご進講」も、天皇の要望あって成立したものです。(猫楠は「陛下も面白い人だね」と語っています)
しかし、天皇は通常の生物学者が生物を見るようには、見ていなかったのではないでしょうか。
天皇は、大日本帝国憲法に「神聖にして侵すべからず」と規定された存在です。新嘗祭には、宮内庁の役人ですら見ることのできない密室でたったひとりで宗教儀礼をおこなっているといいます。いいかえれば日本の、最大にして最高のシャーマンです。
熊楠は、目の前の人物をたんなる生物学者だとは思っていませんでした。彼は過去の帝の事績のすべてを知っていました。いいことも、悪いことも、恥ずかしいことも、隠したいようなことも。そしてそれが、日本がはじまったときから続いていることも。民衆とは違った意味で、彼は目の前の人物を畏敬したにちがいありません。
「猫楠」でもっとも美しいのは、この昭和天皇との邂逅を描いた場面です。ふたりは生物学のことしか語っておりませんし時間も限られていましたが、目に見えない多くのやりとりを交わしたように思えます。
「猫楠」は大傑作です。青空の下、海の見える場所でのふたりの人物の邂逅を、さりげなく、しかし素敵に美しく表現できた作品は、熊楠を描いた伝記・小説・研究をふくめ、この作品以外にはありません。
自分はここにも、感涙せざるを得ませんでした。
レビュアー
早稲田大学卒。書籍編集者として100冊以上の本を企画・編集(うち半分を執筆)。日本に本格的なIT教育を普及させるため、国内ではじめての小中学生向けプログラミング学習機関「TENTO」を設立。TENTO名義で『12歳からはじめるHTML5とCSS3』(ラトルズ)を、個人名義で講談社『メールはなぜ届くのか』『SNSって面白いの?』を出版。2013年より身体障害者になった。
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