『ランチユーインザスカイ』は、「主人公の高校生・南圭介が、なぜに大晦日の夜に打ち上げ花火を上げることになったか?」を描いた物語で、全6話1巻で完結する。一見して作者・伊藤九氏の強烈な作家性が滲んだ作品だと、わかってもらえると思う。それこそ、全ページペン入れが済んだ状態で編集部に持ち込まれたんじゃないかと思うほど、作者の「描きたい絵」「語らずにはいられない物語」の切迫さに溢れている。それに共鳴した人は、この1冊が長く本棚に収まり、何度も思い出したように繰り返し読むことになる。きっとそういう作品だ。
南圭介は、趣味はなし、特技はお勉強という高校生。ただ極度の緊張しいで、高校受験に失敗し、なんとか潜り込んだ高校の生活に馴染めずにいる(もし望んだ高校に入っていたとしても、多分馴染めていないだろうなぁと思える、いわゆる“影の薄いヤツ”だ)。花火大会が行われる夏のある日、彼は学校の下駄箱に差し込まれた手紙を発見する。
花火大会いっしょに行こう。
話したいことがあります。
19時橋の下で待ってる。
ついに、南にも青い春が、“青春”というやつが訪れた!と思いきや、現れたのは
愛の告白? それは違う。
手紙の主、喜多誉は、こう告白する。
「そんでさ、おれは死んだら花火になりたいわけ」
自分の遺骨を花火の火薬に混ぜて打ち上げてほしい。ついてはその花火を一緒に作ってくれないかと、南に持ちかけるのだ。
南と喜多はせっせと打ち上げ花火を作り始める。
そして、冒頭のオープニングタイトルのように花火は上がる。
爆弾と花火
「そんでさ、おれは死んだら花火になりたいわけ」
喜多はどうして花火になりたいのか? 南は深いワケを聞こうとするが、喜多は「わかんない」という。
…なんかこうリクツとかよくわかんないまま気づいたらそこにあるものってあるじゃん。
そーいうのはさ…そのままでいいと思うんだよねー…
余命半年を切った自分の“生”かもしれないし、それを受け入れざるを得ない"運命"かもしれない。
「そーいうの」に向き合うことに、果たして意味はあるのか?
それって大事?
喜多のこのセリフは、まるでビートルズの「Let it be(あるがままに)」や、ジョン・アーヴィングの小説『ホテル・ニューハンプシャー』の「Keep passing the open window(開いた窓は見過ごせ)」といった言葉のように痛切だ。
学校の化学準備室から薬剤を盗み、四苦八苦しながら花火を作るふたり。ようやく花火に詰める小さな火薬玉ができあがり、それに火を付ける。見事、発火したのを見て喜多は叫ぶ。
それとも、もっと違う救済のようなものか?
友情とか、青春とか、なにかキラキラしたイメージの底に沈んだ、“それもまた”友情とか、青春といえるもの。それを見事に自分のスタイルで描ききった作品をぜひ読んでほしい。








