寸止めの夏、鎌倉の夏
主人公の住野は、仕事で、かつて住んでいた鎌倉の地を久しぶりに訪れる。そこで高校時代の記憶が蘇る。
高校1年生の夏、住野は感傷的になっていた。地元のサッカー強豪校に進学したが、これからという時期に骨折したのだ。ギプスをした足で、夜な夜な酒場を巡る毎日。そんなある夜、酔って気分が悪くなり、海辺でうずくまっていると、酒場のアルバイト店員・青木が話しかけてくる。ペラペラと骨折について知識を語り、自分もかつて頭に大怪我を負い、馬鹿になったかも知れないと話す青木。なんか変な人……。
翌日、住野は青木と偶然に再会する。高校生なら、もう店には来ないほうがいいと言う青木を前にして、住野は不意に涙を流してしまう。焦る青木は、突然こんなことを言う。

住野は、また店に行きたいと言う。ギプスが取れるまでの1カ月、ジュースしか飲まないという約束で青木は了承する。そうして夏休みが始まった。
作者の清永卵は、2022年に『SEKI』という読み切り短編を発表している。主人公は、ほどけた靴紐を結べないほどに太った高校生の関君。体型のコンプレックスから、過剰に他者からの視線に敏感になっている関君なのだが、とりわけ教室で前に座るシュッとしたクラスメイトの池田君の視線がかんに障っている。そんな2人の物語……なのだが、「ん~、物語?」と思うくらいの物語である。というのも、なにか物語が始まる予感がするところでこの短編は終わるからだ。でも、噛み合わない会話と雑なコミュニケーション、そこから生まれる“おかしみ”を湛えていて、とても面白い。なにかが心に引っかかる作品だった(あと、第80回ちばてつや賞一般部門で佳作を受賞した『監視地帯』もぜひ読んでほしい)。この『かたすみのきおく』の物語もまた、始まりそうで始まらない寸止めの物語である。
ジュースだけと言われていたのに酒を飲んで酔いつぶれ、退屈な社会の教師の進路相談に辟易し、サッカー部の友だちからは雑に扱われ、住野の鬱屈(うっくつ)は溜まっていく。そしてまた鎌倉の海辺で涙を流していると、また青木が現れて、住野はその鬱屈を吐き出してしまう。





やがて住野は、およそ人の心が読めない青木が好きになる。青木の言葉を深読みして「自分に心を開いている」とか「両想いじゃん」とか思い始め、江ノ島水族館に出かけるに至っては、もう恋人気分。
しかし、骨折が癒えてギプスが取れる頃……。



そして復縁を望む教師に、青木はまんざらでもない表情をしていた。
住野の心は冷める。恋の終わり。そして夏の終わり。
その後、住野はこの夏のことを“なかったこと”として高校生活を送り、適当に女の子と付き合い、大学に進学し、就職する。
再会する夏、新宿の夏
映画や小説、サザン、アド街ック天国、漫画『鎌倉ものがたり』に『海街Diary』……で、なんか知ってる街。
行けば行ったで観光客で溢れかえっていて失望する街。
でも同時に、裏道を一本入れば「なんか違う風景が見えてくるんじゃないか」という幻想を抱いてしまう街。
よそ者にとっての鎌倉という街は、もはやファンタジー世界で「鎌倉は、遠くにありて思うもの」だ。
住野にとって高校1年生の夏の思い出は現実で、生々しい感情であったけれど、それが鎌倉での夏だったことで、“なかったこと”にしやすかったのではないか。そういう意味で、鎌倉という舞台は完璧だ。そして住野は鎌倉の地を離れることで、より強く思い出を“なかったこと”にできた。しかしあの夏は、住野が住野であるために、本当は必要な物語ではなかったのか? しかし物語は始まらず、思い出は記憶の底に封印されてしまった。
舞台は現在に戻り、新宿駅で住野は青木と偶然の再開を果たす。
あの夏の続き、物語はようやく始まるのか?
この作者のことだから、そう簡単に物語は始まらないと私は思う。
というか作者は「人は自分の物語を生きていない」「物語の手前でずっと足踏みをして、噛み合わない会話と、雑なコミュニケーションを繰り返している」という世界の“おかしみ”を、突き詰めて描こうとしているんじゃないかと思うのだが、どうか? と深読みして、次巻を待つ。