広くて大きな海を眺めているつもりが、いつのまにかカメラが遠景のショットから寄りまくって砂粒が岩のようなサイズになる。あるいは他人の顔を見ていたつもりが全員自分の顔に思える。『バッドベイビーは泣かない』はそういう不思議で巧みなマンガだ。
この4人の大人たちから目が離せないのだ。彼らは隙があって隙がない。
すごく立派なことをしたのに、この世のどこにでもいそうすぎて「地味なアベンジャーズ」のような彼らは、7年後、ある少女を再び救おうとする。では「救う」とはどういうことか。ある人の命や人生を守ることが「救う」なのだとしたら、その人を守るために別の“ある命”を選ばないことは「救う」に相当するのか。
私も「命は助けなきゃ」と思うけれど、同じくらい「それはそれ」と思っている。なにせこのページに覚えがありすぎるのだ。
妊娠検査薬が示す陰性の印がくれる安心感よ! 似た経験をもつ女は大勢いるはず(結果を知った男が「神様サンクス!!!!!!」と心の中でガッツポーズした事例だって少なからずあるだろう)。
『バッドベイビーは泣かない』は、いろんな命が寄せては引いてを繰り返し、次第に人間の感情のやわらかくてみっともない部分を少しずつ洗っていくサスペンスラブコメディだ。そう、サスペンスもラブもコメディも等しく渦巻いている。
勢いにまかせたセックスで避妊に失敗し、公私すべてがどん詰まって心が折れまくりの“間戸かすみ”は、前述した地味なアベンジャーズの1人。
感謝状をもらって新聞に載った7年後、彼女は仕事でひどいミスをして、X遺伝子もY遺伝子も1本もいらないような相手と関係をもち、自分で自分のことを「人生前途0点」などといっている。なお、かすみの妊娠騒動の相手はなかなかの腰抜け&カスであり、彼との一夜は「なんだかんだ失敗すんのが人間じゃないですか」の具体例として満点をたたき出すような出来事だった。
ところでかすみは軽率で愚かなのか。かすみがカフェのトイレで尿のしみた妊娠検査薬をゴミ箱に捨てながら神に感謝したのはなぜ?
こんなに情報量がみちみちのページはそうそうない。見どころの宝庫。なのに空気をたっぷり含んでいて見事だなあと思う。
いくつかひもといてみよう。まず、望まない妊娠はかすみの価値観に合わなかった。かすみは、“最後まで正しい男”と間違いのない関係を築き、最後まで突き進みたい。ある意味、世界を疑わない子犬のような人だ。
そして「やっぱり神聖なものじゃないですか母子って」と言われたってなあ……と遠い目をする“佐津川和歌”も見逃せない。かすみが言葉を投げた先が、もしもSNSだったら大騒ぎになっただろうが、2人は生身の人間同士、あけすけなバトルなど始まらない。和歌は、自分の心のザワつきや、ポロッと言ってしまいそうなことを飲み込んで、かすみのグダグダに付き合う。
地味なアベンジャーズの一員である和歌は、今は新宿のこぎれいなマンションで小型犬と暮らしている。新宿のあんまり汚くなさそうなエリアという立地も、テレビから流れる連続不審火のニュースも、全部あとになって意味を持ちそう。
小さな疑いと、言わずにしまっておく感情と、話す義理もない秘密が、全部かすかなサインとなって『バッドベイビーは泣かない』は想像もしない方向へ転がっていく。
物語の中心にいるのは、今まさに「産まない選択」をしようとしている17歳。
かすみの妊娠騒動が「妊娠していませんでしたー!」で終わりを迎えた頃、地味なアベンジャーズたちは奇妙な偶然と異様なまでの執念で再集結することに。
執念がなかったら会えてないよ。かすみには、当時なぜかしら「救い」に思えた“堂島直”が、7年後も変わらず救いに見えてしまう。彼もまた地味なアベンジャーズの一員であり、つかみ所のない男で、偏執的ともいえるかすみの言動をフワフワと受け止める。煙に巻くのがうまい。
ところで大人同士の再会は「背が伸びたなあ」だとか「進学先はどこ?」のような、目に見えてわかる特徴がとても薄い。そして前途洋々さがどんどん減っていく。でも、いろいろあるのだ。
たとえば地味なアベンジャーズの1人“木目田天(天と書いてタカシと読む)”は7年の間に結婚と離婚を経験した。離婚の原因は不妊だという。ここでも命が出てくる。
そしてかすみの「やっぱり神聖なものじゃないですか母子って」という言葉に何か言いたげだった和歌はやはり何か言いたげ。
木目田は7年前の出来事にとてもこだわっている。彼もまた、かすみとは別の意味で偏執的な男だ。
なんでそんなに知りたいの? 知って救いたいらしいが、どうやって? 木目田という男は不愉快なくらい知りたがりで、彼の話に自然と加わるかすみも、和歌も、堂島も、なにかしら不愉快な部分を等しく備えている。だから他人に思えない。彼らがなぜ少女を救いたいのかを私は知りたい。
もしかして、とっさに手を伸ばして自分を危険にさらしてでも助けたい人がいることは、実は助ける側の命をこそ、守っているのでは。そんなことを考えながら知りたがりの私は2巻を待っている。
レビュアー
花森リド
ライター・コラムニスト。主にゲーム、マンガ、書籍、映画、ガジェットに関する記事をよく書く。講談社「今日のおすすめ」、日経BP「日経トレンディネット」「日経クロステック(xTECH)」などで執筆。
X(旧twitter):@LidoHanamori