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2017.08.05

レビュー

著者は「サティアン」の狂気を嗅ぎつづけた。いまも残るオウムの謎を追う!

──「第一サティアンから押収したのは、約十億円の札束と二億円の金の延べ棒です。預金口座には二十億円あり、五億円相当の不動産に加え複数の企業も所有していましたので、総額五十億円ほどだったのでしょうか」──

ある宗教教団との闘いの長い歴史を終わらせた主人公が語る冒頭の台詞に、思わず息を呑む。

この本が扱っているのは、『カルマ真仙教事件』である。巻末には「この作品はフィクションですが、オウム真理教による一連の事件捜査に従事した、自らの経験をもとに執筆しました」との、著者による但し書きが付けられている。例の「あの事件」に、嫌悪を抱くのもいい、また、懐かしさを覚えるのもいい。とりあえず、本を手に取る。

──「それにしても汚い床だな」歩くたびにペタペタと靴の底が床に張り付くような感じだ。「室内はどこもこんなもんです」「こんなこともあろうかと靴カバーを持ってきたんだ。悪いが靴の上から履かせてもらうよ」「どうぞ、ご自由に」たまりかねた鷹田はポケットから鑑識用の靴カバーを取り出して装着する。──

警視庁公安部の捜査官が、異臭漂うサティアン内を視察してまわる一連の描写は、あれだけ流されていたワイドショーの映像からはけっして伝わってこなかった事件のリアルさ、当事者にしか見て取れなかった「事件の質感」のようなものとして、我々に伝えられる。

主人公である、警視庁公安部OB・鷹田正一郎(たかだせいいちろう)の回想を軸に、「あの事件」の模様が生々しく描写されていく。そして、その事件から20年の時を経た今、新たに浮かび上がったひとつの事実。カルマ真仙教の元幹部で現在死刑囚である「ある男」から、5億円もの資金を貸金庫に預かっていた人物がいたのだ。

憎むべき宗教教団。あってはならない犯罪の数々。すべての蛮行に終止符を打ったはずが、醜悪にも、そして残酷にも、20年以上の時を経て、悪事がふたたびあぶり出される。著者の但し書きどおり、限りなくノンフィクションに近い警察小説として、本書の物語は進行していく。

私事を語ることをお許し願う。先日、地下鉄サリン事件の被害に遭い、回復後、電車通勤の恐怖から逃れるため海外に渡り、ある技術を習得し、現在は日本で社長を務めている女性に会う機会があった。過ぎ去った年月のおかげか、彼女は事件の核心に触れることもなく、事実だけをサラリと話してみせた。

そう、言いたいのはひとつ。「あの事件」は、そして「あの教団」は、多くの人の人生を変え、多くの「物語」を生んだのだ。

「カルマ真仙教」を率いるのは「阿佐川光照(あさかわこうしょう)」という男である。幹部連中も「それらしき名前」で本書内に登場する。ロシアに強い早池、口の達者な周防、サリン製造の土坂、古参の新間、化学者の村本。教団経営の居酒屋「うま安亭」なども登場する。

まだ、それら幹部の詳細な動きは見えない。序章にすぎない上巻では、彼らの存在は断片的な「情報」でしかなく、主人公の耳や脳内を通じ、不気味に挑みかかってくるだけだ。

内通者を介してサティアンを見学し終えた主人公は、緊張の面持ちでその場を後にした。

──目の先にあるレンタカーまでの距離が随分長く感じられて、歩きながら背中をじっとりと汗が濡らした。(中略)車窓を眺めながら人心地付く。生命があってよかった。緊張の糸が切れると、次第に目と首周りが鉛をつけたように重くなった。食欲は失せたままで、好物の駅弁の包みを開けてワインだけ取り出すと一気に空にした。ほろ酔いどころか頭は冴え冴えとしていた。カルマ真仙教の狂気が、出来の悪い密造銃のように暴発しそうな気がした。──

文字を追って行きながら、読者は自然と、自分と作者が生み出すパラレルワールドに入る。1990年代を舞台に、自分の生活を軸にした思い出の断片と、作者の作り出す物語が、一編の不思議な物語として織り上げられていく。

1990年代初頭、読者はそれぞれの年齢でそれぞれの時を過ごしていた。テレビのワイドショーは、オウム真理教のことをちょっと「突飛な集団」として、まだいくぶん好意的に捕らえていた。宗教学者、芸人、大物タレントなどが、教祖・麻原彰晃に興味を示し、白い布で覆われた大きな椅子にあぐらをかいた姿とともに、雑誌やテレビ番組のコーナーを賑わせていた。

オウム真理教は、集団で国政選挙に出馬した。選挙活動で流れる数々の珍曲や像の被り物、オウムシスターズと呼ばれた美人姉妹信者の不可思議なダンスなどが話題になった。都内にある教団経営の飲食店なども紹介され、また、政府の組織を真似た「大蔵省」「外務省」「法務省」「車両省」などの省庁性をしき、その突飛さと「おままごと」的感性が一般人に対する油断を呼び起こしていた。当時の筆者宅でも、家人が「ほら、治療省」と笑いながら、擦り傷をつくった指先に絆創膏を巻いていた、そのほのぼのとした空気を、どこか懐かしく思い出してしまう。しつこく続ければ、わたしのなかで、麻原彰晃はメロンの好きな単なる謳(うた)いたがりのおっさんだった。

だが、そんな一般人の油断を尻目に、捜査は着々と進行していた。

唯一の失敗があった。それは油断ではなく、「遅れ」だった。

憲法で保障された「信教の自由」。任意捜査の限界は、日本警察にとって越えられない大きな壁だった。山梨県警警備部公安課がかねてから視察していた富士にあるサティアン内での化学プラント建設が始まり、教団の武装化が加速した。

──「危険な兆候でしょう。遅きに失する、ということだけは避けなければなりません。すでに大きな力を持つカルト教団を、山梨県警だけに任せていいものでしょうか。思案のしどころなんですけど、今、警視庁を動かすことはできませんからね」──

警視庁公安部は地団駄を踏むような気持ちで時を過ごしていた。そんなある日。

「すぐに出てきてください」

「カルマ真仙教に先制攻撃を受けました」

「どこがやられたのですか」

「長野県松林市の裁判官官舎だと思われます」

「何があったのですか」

「毒物が撒かれたんです。現在急ピッチで情報確認を進めています」

ついに教団が世間に牙を向いた。長野で行われたサリン事件だ。物語は緊迫感を高め、次巻へと引き継がれる。

限りなく現実に近い架空の設定と、大迫力で迫りくる歴史的事実。そのふたつが交差する不思議な読後感。これはニッポンを揺るがした大事件を「体感」する作品である。

レビュアー

中丸謙一朗

コラムニスト。1963年生。横浜市出身。『POPEYE』『BRUTUS』誌でエディターを務めた後、独立。フリー編集者として、雑誌の創刊や書籍の編集に関わる。現在は、新聞、雑誌等に、昭和の風俗や観光に関するコラムを寄稿している。主な著書に『ロックンロール・ダイエット』(中央公論新社、扶桑社文庫)、『車輪の上』(枻出版)、『大物講座』(講談社)など。好きなアーティストはジム・モリスンと宮史郎。座右の銘は「物見遊山」。全国スナック名称研究会代表。日本民俗学会会員。

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