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2017.03.24

レビュー

彼は死刑でよかったのか?──凄惨極貧から獄中結婚まで、本人書簡を初公開

死刑判決が出された時に言及されるものに「永山基準」と呼ばれるものがあります。この基準とは、1983年の連続射殺事件の被告・永山則夫の上告審判決で、最高裁が2審の無期懲役判決を棄却した際に示されたものです。この本は「永山基準」というものがどのように成立したのかを、永山則夫の生涯と彼の裁判記録をもとに詳細に描いた力作ドキュメントです。(ちなみに永山裁判の東京地方裁判所の第1審では死刑判決が出ていました。

堀川さんが「永山基準」を追うきっかけになったのは山口県光市母子殺害事件の判決でした。光市事件では広島高等裁判所の判決では無期懲役、この無期を破棄して死刑を出したのが2度目の広島高等裁判所、そのどちらの判決にも同じように「永山裁判の判決文が引用」されていました。
──同じ永山裁判の同じ部分を引用しながら、判決は「無期懲役」と「死刑」と、その判断を分けていた。これは一体、どういうことだろうか? 多くの報道は、二度目の広島高等裁判所の判決は、これまで死刑の基準となっていた「永山基準」からさらに一歩踏み出した厳しい判決だと伝えていた。──

「永山基準」と呼ばれるようになった判決文は次のようなものです。
──死刑制度を存置する現行法制の下では、犯行の罪責、動機、態様ことに殺害の手段方法の執拗性・残虐性、結果の重大性ことに殺害された被害者の数、遺族の被害感情、社会的影響、犯人の年齢、前科、犯行後の情状等各般の情状を併せ考察したとき、その罪責が誠に重大であって、罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむをえないと認められる場合には、死刑の選択も許されるものといわなければならない。──
これが永山裁判で2審の無期懲役を破棄し、死刑判決となった根拠となったものです。

ではこの永山裁判の2審で1審の死刑判決をしりぞけ、無期懲役という判決はなぜ出されたのでしょうか。

そこには判決を出した船田裁判官のある思いがありました。船田氏は永山裁判に関わる以前の法廷で、永山事件と同様に無期懲役か死刑かを争う裁判に関わったことがありました。ところがその裁判で「死刑事件に対する裁判所のあり方そのものに大きな疑念を抱くという経験」をしたのです。「バー・メッカ殺人事件」と「カービン銃事件」という、どちらも当時大きな話題となった事件でした。

陪席として審理にあたったこれら2つの裁判は「船田裁判官が思うのと反対の結果になった」のです。
──無期懲役相当と思ったバー・メッカは死刑に、死刑相当と思った「カービン銃事件」は後に無期懲役に減刑され、確定した。──

この判決にあい、船田氏はこう考えたそうです。「もし自分が裁判長であれば、それぞれの裁判は、結果が逆になったであろうことに疑念を抱いた」と。
──つまり、日本国内の裁判所で同じ事件を審議するのに、死刑になるか否かが問われるときに裁く人(裁判体)によって結果が違うような状態で本当によいのだろうか、ということだ。(略)この問題は、たとえばある傷害事件の裁判において、厳しい裁判官にあたれば懲役七年になり、そうでなければ懲役五年になるといったような、有期刑中の量刑の長短にかんする案件とは次元が異なる。──

堀川さんが記しているように「裁判官によって量刑に多少の差異がうかがえる傾向がある」のはわかります。けれど「死刑」か「無期懲役」かを争うものはそれですまさせるものではありません。「死刑」と「無期懲役」は量刑の差ではありません。明らかに質の差がそこにはあります。
──死刑を選択する場合があるとすれば、その事件については如何なる裁判官がその衝にあっても死刑を選択したであろう程度の情状がある場合に限定されるべきものと考える。──(無期懲役判決文)

死刑を覚悟していた永山は、獄中で「凄まじい」と思えるほどの読書と勉強の日々を送ります。「なぜ自分がこのような事件を起こしたのか」と問い続けながら。そしてある日法廷である著作の1節をそらんじてみせます。
──貧乏は人の社会的感情を殺し、人と人の間における一切の関係を破壊し去る。全ての人々によりて捨てられた人は、かかる境遇に彼を置き去りにせし人々に対しもはやなんらの感情も持ちえぬものである。──
永山の思想を凝縮した1節です。

この間、永山は膨大な手記をまとめたものを出版します。印税は被害者へ、というのが永山の意思でした。
──「思想を残して死ぬ」といい続けていた。この世から貧困をなくすために訴え続ける。それが、四人もの命を奪ってしまった自分の反省なのだと信じていた。──
その実践でした。

やがて永山は彼の著書『無知の涙』等に心を打たれた和美さんという女性と交際(文通)を始め、獄中結婚します。この結婚相手の女性も永山同様、想像を絶するような苛酷な人生を生きてきた人でした。

──自分のような殺人者を産んだ社会への糾弾の手をゆるめてはならない。(略)「思想に生きる」というのは、永山にとって、裁判でたたかい続け、そしておそらく処刑されることを意味していた。──
頑なともいえる永山に対して和美さんは激しく問いかけます、「四人の被害者のことを考えたうえで、それでもなお、生きるということを、少しでも考えられないか」と……。

揺れる永山の前に下されたのが無期懲役という審判でした。
──「犯人に償ってもらいたい」という言葉。その償いの方法は、「死」であるべきなのか、「更正」であるべきなのか──。深く、重い問いかけである。──

この第2審の櫛淵裁判官の尋問はぜひ読んでください。裁判官の個性と人を裁くとはどのようなことなのか、見事に語っている部分です。

生きて償う、それがどのようなものなのか、それを問い続けながら生きる2人の日々が始まろうとしていました。

そんな中、検察の上告による最高裁の審理が始まります。
──上告から一年半が経った一九八三年春、永山事件の審理は大きな節目を迎える。最高裁では基本的に口頭弁論は開かれず書類審査だけが行われる。ところが、例外的に弁論が開かれることがある。それは、最高裁が、高裁の判断を覆す可能性が強まった時である(当時)。一九八三年四月二五日、永山事件について最高裁が口頭弁論を開くことを決めたと関係者に通告された。──

無期懲役は破棄され、差し戻し、そして再び死刑が宣告されることになったのです。
「生きたいと思わせておいてから、殺すのか……」
こんな永山の言葉が残されています。

この時に述べられたのがあの「永山規準」と呼ばれるようになったものです。その成立の裏にあったもの、それに関わった多くに人々の人生をこれほど的確に描き出したものはありません。

近年「これらは単に考慮要素を指摘しているだけであって、規準とはいい難い」という内容のものが最高裁の『裁判員裁判における死刑求刑事件への対応について』という文書で発表されました。さらに同文書中「一つ一つの事実の重みは、それぞれその事件に固有のもの」とあるそうです。でもそれは堀川さんが指摘したように、すでに2審の船田裁判長が実践していたものだったのです。

──船田裁判長は、同じ言葉で同じ条件に見えるようであっても、事件を巡る「情状」はそれぞれ固有のものであり、画一化された規準で人を裁くことはできないとの趣旨を、具体的事例を引きながら書いています。(略)船田裁判長の言葉は決して特別なものではなく、ひとつの事件、ひとつの命に真剣に向き合ったことのある人であれば、誰もが納得する普遍的な考え方といえます。四半世紀以上の時を経て、その言葉が最高裁判所の見解として現れたことに深い感銘を抱くと同時に、司法全体が、死刑事件の審理に於ける裁く側の有り様について、長く現状追認に堕し、放置してきた怠慢を嘆かずにはおられません──
明らかに他の量刑と次元の異なる「死刑の規準」とはなんなのか、なんども考えさせる傑作ノンフィクションです。

レビュアー

野中幸宏

編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。政治経済・社会科学から芸能・サブカルチャー、そして勿論小説・マンガまで『何でも見てやろう』(小田実)ならぬ「何でも読んでやろう」の二人です。

note
https://note.mu/nonakayukihiro

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