担当編集 戌による『涙香迷宮』いろは歌の簡単講座
いきなりですが、断言します。
竹本健治先生の『涙香迷宮』は、日本語で書かれた暗号ミステリの史上最高傑作です。
それほどの神品です。まさに「日本語」の奇蹟が起きています。
日本語を愛する人ならば必読です!
思わずそこまで言わしめるほど超絶技巧の暗号は、明治の傑物・黒岩涙香が残した「いろは歌」四十八首で構成されています。
ですが……「いろは歌」って何?
その疑問にお答えするべく、『涙香迷宮』作中からまず一首、引用します。
閉ぢぬる室に 遺體あり
鍵は机で 腕部なし
砒素残す魚 大繪皿
眉根八重寄せ 目も見けれ
この歌は「密室」に「死体切断」、「毒殺」といったミステリの要素を盛りこんでいますが、全部をひらがなにしてみましょう(濁点は外して、旧かなづかいにします)。
とちぬるむろに ゐたいあり
かきはつくえて わんふなし
ひそのこすうを おほゑさら
まゆねやへよせ めもみけれ
このひらがなの並びを見て、ある特徴に気づかれたでしょうか?
ヒントとして、もう一首、作中から引用します。
ケンタウロスよ 星降らせ
琴座のベガも 笑み送れ
天ぞ指にて 螺子廻る
夜話を紡ぎぬ 營爲なり
ちょっと宮沢賢治を先取りした雰囲気もある、ロマンティックな歌ですね。
これも前の歌と同じく、全部をひらがなにしてみましょう(濁点は外して、旧かなづかいにします)。
けんたうろすよ ほしふらせ
ことさのへかも ゑみおくれ
あめそゆひにて ねちまはる
やわをつむきぬ えいゐなり
この二首のひらがなの並びに共通点があるのですが、もう見抜かれましたか?
そうです。この二首とも「いろは」四十七文字と「ん」を加えた合計四十八文字を一度ずつすべて使っているのです。
これが「いろは歌」と呼ばれるものです。(単純に「いろは」と呼ばれる場合もあり、作中でも竹本先生のコメントでも「いろは」と表記されているのですが、わかりやすくするために便宜上、この解説文では「いろは歌」)とします)
この「いろは歌」は、日本語の遊び心が発揮された面白い趣向です。
そもそも、もっともよく知られている「いろは」が
いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす
色は匂へど 散りぬるを
我が世誰ぞ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見じ 酔ひもせず
と本家本元「いろは歌」になっているわけです。(「ん」がありませんが、そこはご容赦ください)
そして、この「いろは歌」を作るには、厳しい制約の下、豊富な語彙を駆使して意味が通じる内容に組み上げていくという「日本語のアクロバット」が必要となるのがおわかりかと思います。
さらに『涙香迷宮』に登場する「いろは歌」四十八首がすごいのは、その冒頭の文字が全部違っているのです。
つまり、四十八文字おのおのの文字から始まる「いろは歌」をひと揃い作っているわけなのです。(「あれ? 『ん』で始まる歌なんて作れるの?」と思った方はぜひ『涙香迷宮』141Pをご覧ください。機知に富んだ解答が用意されています。)
この四十八首は、『涙香迷宮』P125からP147までわかりやすい解説付きでずらりと並ぶのですが、そこを読むだけでも圧倒されてしまいます。
しかもこれはまだ入り口にすぎず、このとんでもない「いろは歌」四十八首に多重構造の暗号が仕掛けられているのです!!
IQ208の天才囲碁棋士で美青年の牧場智久が、難攻不落の暗号を解読する鍵を、智恵と才覚を働かせてゲットし、暗号解読を繰り返して一段ずつステップアップしていく様は、まさに超絶の頭脳戦。
読む者は皆、絶え間ない知的刺激に興奮し、賛嘆のため息を洩らすことになります。これが「日本語で書かれた暗号ミステリの史上最高傑作」の醍醐味なのです。
作中では「黒岩涙香が残した」となっていますが、もちろん「いろは歌」四十八首はすべて竹本健治先生の作。そこに仕掛けられている多重暗号も当然、竹本健治先生の作。
もはや竹本先生は「日本語の言語感覚の天才」としか言いようがありません。凄すぎる……!
みなさんも『涙香迷宮』を読んで、この凄さをどうか体感してください。
ここまでは「暗号ミステリ」と言ってきましたが、実際はもはやその領域を超えて、天才が創りあげた知の大宮殿と称するのがふさわしい……『涙香迷宮』はそれほどまでに傑出した、永遠不滅の名作なのです。
<おまけ>
竹本健治先生が「いろは歌」に目覚めたきっかけ、「いろは」歌を作るコツを記したエッセイが『短歌研究』2013年11月号に掲載されています。非常に実践的な内容で面白いです。
また竹本先生はツイッター上でIRH48(いろはフォーティーエイト)という活動も行っています。詳しくは竹本健治先生のツイッターをご覧ください。
レビュアー
講談社 文芸第三出版部所属。2015年7月から竹本健治先生の担当編集。
実は、高校生の時に『匣の中の失楽』を読んで以来、筋金入りの竹本健治ファン。まさか自分が担当編集になれるとは思っておらず、驚きと喜びを噛みしめながら、『涙香迷宮』の単行本を作りました。