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2016.03.23

レビュー

【誰だ?】こんな頭のいい日本人がいたのか!──知の横綱が狂喜

この大著を生んだのは、驚きだった。

本書執筆当時の中沢新一を、「日本最高の知識人のひとり」と断じることに、異論のある人はすくないだろう。最高の知識人とは、要するに横綱だってことだ。自分より頭のいいやつに会うことがない。見たこともない。ひょっとすると日本人に限定すれば、古今東西絶無であると考えていたかもしれない。横綱とは、そんな贅沢な悩みを持たずにはいられないものなのだ。

その中沢が、驚いた。
「こんなに頭のいい人がいたのか!」
最初の驚きは、まずそれだったにちがいない。

南方熊楠の博識は、常人の域をはるかに越えている。

たとえば、『和漢三才図会』という、江戸時代の百科事典がある。この人、これを丸暗記してるのだ。覚えてる本はむろん『和漢三才図会』だけではない。古典・漢籍・仏典・同時代の雑誌と多岐にわたっている。

しかも彼は、20にちかい言語を解していたため、外国語の書籍も難なく読めた。(彼のもっとも有名な論考は現在も発刊されているイギリスの科学雑誌『ネイチャー』に英語で発表されている)。つまり彼の脳には、世界のさまざまな知識が、随時取り出せる形で刻まれていたのである(これをある種の病であるとする研究もある)。

すさまじい頭の良さというしかない。

さらに、次なる驚きが、著者を襲う。
彼の思想の核とされているのは「南方マンダラ」(本書でも多くのページがさかれている)であるが、これは通常の論文として、つまり誰にでもアクセス可能なものとして世に出たものではない。
では、どのような形で世に出たのか。驚きとしては、こちらの方が大きかったかもしれない。

南方マンダラは、手紙の形で語られたのだ。熊楠は生涯、その思想を語らなかった。したがって、それを知っていたのは手紙を受け取った当人だけである。

真言僧・土宜法龍(どきほうりゅう)。高野山の管長にまで上り詰めたこの男は、慶応大学出身で、仏教研究のために渡欧したこともあるモダンボーイだった。わかりやすくいえば、仏教の知識は当然のように深く(熊楠が教えを請うこともあった)、ヨーロッパの知識の素晴らしさも熟知しており、知識を世界にアピールするためにはどうすればよいか、早くから理解していた人だったといえる。

熊楠は、南方マンダラをを彼だけに語った。すなわち、南方マンダラは発表されたのではなく、ただひとりに伝えられたものだったのである。

すべて思想には、顕教と密教がある。顕教とは誰にでもアクセス可能な状態で伝えられるもの。密教とは師から弟子へ、他には秘密の形で伝えられるものだ。
なぜ秘密とするかといえば、もっとも大きいのは、誰にでも理解できることではないためである。ある程度修行を積んだ者でなければ、この思想は理解できない。

熊楠の方法は、密教だった。
伝える対象を選び、その対象だけに、他には秘密で開示される。他の者は、そこにアクセスできないし、そもそもそこで「開示」があったことさえ知ることはない。言うまでもなく、商業主義が入り込むことができない方法でもある。

そんな方法で知性が開示されていることに、中沢はおおいに驚いたのだ。中沢は、真言密教を探求するために、チベットにまで赴いた人である。密教がどんなものか、じゅうぶんに理解していた。この日本で、密教の形で思想が息づいていたことに、驚きを禁じ得なかったのだ。

本書は、南方熊楠の伝記ではない。熊楠の思想にふれ、そこで思想家・中沢新一がなにを考えたのか──それを記した書物である。当然のことながら熊楠が考えなかったようなことも記されているし、熊楠の死後に生まれた思想的果実も引用されている。

だが、本書が生まれるきっかけは、ふたつの驚きだった。

ひとつは「こんなに頭のいい人が(日本に)いたのか!」という驚き。

もうひとつは「思想のもっとも大切な部分が、手紙の形(密教の形)で伝えられている!」という驚き。

中沢のような人が、驚くことはまずない。だって、横綱なんだからね。だからこそ、驚きがうれしいのだ。喜ばしいのである。それは、半可に理解していたこの世の深さを、あらためて知る瞬間でもあるのだから。

本書にふれた者は、気づくはずだ。これを書いた人は、うれしくてうれしくて仕方ないんだなって。

本書は、思想の書であると同時に、よろこびの書である。『森のバロック』というタイトルも、とてもよい。

レビュアー

草野真一 イメージ
草野真一

早稲田大学卒。書籍編集者として100冊以上の本を企画・編集(うち半分を執筆)。日本に本格的なIT教育を普及させるため、国内ではじめての小中学生向けプログラミング学習機関「TENTO」を設立。TENTO名義で『12歳からはじめるHTML5とCSS3』(ラトルズ)を、個人名義で講談社ブルーバックス『メールはなぜ届くのか』『SNSって面白いの?』を出版。「IT知識は万人が持つべき基礎素養」が持論。2013年より身体障害者になった。

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