「権力は腐敗する、絶対的権力は絶対に腐敗する」というイギリスの歴史家ジョン・アクトンの言葉はよく知られています。この本を読むと権力についてもう一つのことがいえるように思います。それは「権力(者)は嘘をつく」と。
この権力者の嘘によって汚名をきせられたのがこの本の主人公である相楽総三(さがら・そうぞう)であり、彼がひきいた赤報隊でした。
相楽はもともと薩摩藩と関係が深く、浪士を集め、幕末の江戸市中を中心にさまざまな挑発行為を幕府に仕掛けていました。それらの活動が後の薩摩藩邸焼き討ち事件、さらには鳥羽伏見の開戦へとつながるものとなります。
江戸騒乱の後、海路江戸を脱出した相楽は京へとむかいます。そして、薩摩藩と公家の支援のもとで近江の地で新たに結成したのが赤報隊でした。
相楽らに率いられた赤報隊は幕府攻撃の先遣隊として東山道を江戸へと向かいます。その直前、相楽たちにある勅定書が下されます。それにはこう記されていました。「是迄幕領之分総テ当分租税半減」、つまり〝年貢を半減〟するという内容のものでした。新政府はこの通達によって幕府に反抗している民衆の支持を得ようと考えたのです。
赤報隊が発した〝年貢半減〟は各地で熱狂的に支持されましたが、実際は新政府にはこの約束を履行できるような財政状態ではありませんでした。
「太政官としては、租税を減免したのでは、財政に欠陥が出てくる。で、相楽に与えた租税減免についての一切を取消さねばならないが、既に相楽は通過した村々で、租税のことを発表し、民心を旧幕府から引きはなすのに努力していた」。
そして新政府は赤報隊を切り捨てる行動に出ます。赤報隊を〝偽官軍〟と呼び相楽たちの捕縛命令を出したのです。〝偽官軍〟の汚名をかけられたまま相楽たち多くの者は処刑されてしまいます。
実に巧妙なことに新政府は相楽たちに新政府軍の証し(印)を与えていなかったともいいます。あの勅定書とはいったいなんだったのか、けれど真相を知っているはずの相楽はいっさい抗弁することもなく処刑されたのでした。それは相楽の精一杯の抵抗だったのでしょうか、それとも相楽なりの筋の通し方(美学)だったのでしょうか……。
処刑場に引き据えられた相楽は、赤報隊の同志が役人に「岩倉を出せ、参謀を呼べ」と、大声であびせるなかで、ひとり静かにいました。その相楽の無言の端座を見て、処刑場に集まった群衆も「感にうたれ、ひッそりとして、悪人でも親分は違うと、歎息の声がそこら中で起こった」といわれています。
この本には相楽の孫(木村亀太郎)が、祖父の名誉回復を求めて明治政府の高官たちの間を奔走する姿も描かれています。相楽を知っていながら、またその〝偽官軍〟の汚名をなぜ被ることになったかを知っているがゆえに、重い口を開かない政府の顕官たち。相楽の名誉が回復されたのは昭和に入ってからでした。
歴史を動かしたものは「明治維新の偉業は公卿と藩主と藩士と、学者、郷士、神道家、仏教家戸からなったのかごとく伝えられがちであるが、そして又、関東は徳川幕府の勢力地域で、日本の西は倒幕、東は援幕と印象づけられがちであるが、その二ツとも実相でないこと」、さらに「士・農・工・商という称呼で代表している、全日本のあらゆる級と層から出て明治維新の大業がなったのが実相」であると長谷川さんは語っています。「明治維新には博徒すら起(た)っている。更に極端な例を引けば盗賊すら心身を浄めて御報告に精進」したのです。
なぜ「四民蹶起」が起きたのでしょうか。それは旧幕府の旧態依然たる体制に息苦しさを感じ、新政府の掲げた〝理想〟に苦しい現在を抜け出す道を見たからです。けれどその多くは歴史の中に埋もれていきました。赤報隊と同様に罪を負わされた者も少なくなかったといわれています。史伝、ドキュメント・ノベルとして実に緻密に調べ上げて幕末の悲劇を追ったこの本には権力者の嘘を見逃してはいけないという作者の心があるようにも感じました。
長谷川伸さんは『瞼の母』『関の弥太ッペ』『沓掛時次郎』『一本刀土俵入』などの大衆文学者、いわゆる股旅者の作者として著名な小説家ですが、相楽の生き方・死に方にどこか彼の描いた主人公たちに通じる、情や義理、男の意地といったものを感じていたのでしょうか。長谷川さんの押さえた筆致の中からそのようなものが浮かんできます。
ちなみに長谷川さんの作品のいくつかは、小林まことさんによってコミック化されています。
レビュアー
編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。
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