征服された神々
ところが、日本一の大きさを誇る出雲大社(島根県)のしめ縄は、伊勢神宮など一般の神社神宮で見られるしめ縄とは向きが反対になっています。大社のほうが外部、こちら側が内部となるように張られているのです。
むろん、これは意図的なものです。
出雲は大和朝廷以前の支配者だったという説があります。出雲政権ないしは出雲王朝というべきものがあり、その勢力範囲は大和(奈良県)はもちろん越後(新潟県)にまでおよんでいたといわれています。それゆえ、出雲大社が外部になっているのです。わかりやすく言えば出雲は「大和朝廷ならざるもの」と考えられているということでしょう。
大和朝廷の歴史書『古事記』『日本書紀』の中で、国譲り神話は大きなクライマックスになっています。
出雲の統治者オオナムチ(オオクニヌシ)は、高天原(皇祖アマテラスをリーダーとする天の神)の求めに応じて国を明け渡します。記紀には「あなたがたがつくった国だから」と素直に譲ったように書いてありますが、実際には武力による圧力があったと考えるのが自然でしょう。
出雲政権は大和朝廷に滅ぼされた。
そう考えると、納得いくことはとても多いのです。
たとえば、神無月です。
神無月は文字どおり、土着の神が土地を留守にしていなくなっていることを意味しています。どこに行ってるのか。出雲です。十月には八百万(やおよろず)の神々が全国から出雲に集まります。縁結びのために集まっていると伝えられていますが、もともとはそんな平和的なものではなく、大和朝廷に征服された神々が謀議のために集まっていたと考えたほうが通りはいいでしょう。
なぜ出雲なのか?
『古事記』や『日本書紀』に記されている日本の古典神話をひもといて見ると、まずだれでも素朴な疑問を持つことは、神々の活躍する舞台が、地上の出雲国となっている場合が、なぜかひじょうに多いということである。
スサノオやオオナムチが活躍する、いわゆる「出雲神話」の部分は『古事記』では、神代の巻の約三分の一くらいもの大きなスペースが割(さ)かれているが、この部分以外にも、出雲の地名は、記紀に、しばしば顔を出してくる。
たとえば、首が八つ尾が八つの怪獣・八岐大蛇(やまたのおろち)のエピソードです。舞台は斐伊川(出雲の川)の上流、八岐大蛇を退治したのはスサノオです。本書でも例証されているとおり、スサノオはもともと出雲の土着神でした。それが記紀神話最大のヒーローとなり、日本列島を生み出したイザナギの息子であり、アマテラスの弟となっています。
また、八岐大蛇の物語は三種の神器のひとつ草薙剣のルーツ話でもあります。すなわち、皇室の宝の誕生秘話でもあるのです。
大和朝廷に滅ぼされた国は出雲だけではないはずです。にもかかわらず、出雲はあきらかに特別扱いされています。なぜでしょうか。単なる敵対勢力ではないとすれば、どんな存在だったのでしょうか。本書の最大の眼目はそこにあります。
オオナムチ(オオクニヌシ)に関しても、興味深いエピソードが紹介されています。
本書いわく、オオナムチは「生粋の出雲っ子」であり、とても人間くさい性格です。さらに、たいへんなモテ男、艶福家でもあります。あっちこっちでさまざまな女を妻とし、たくさんの子を設けました。その数、なんと181人! 信じられない精力です。むろん、オオナムチが複数いた可能性も否定できませんが、にしてもすごすぎる。
ところが、本書はこともなげにこう語ります。
日本の古典のオオナムチは、典型的男神であるが、その説話を見ると、かつての母神崇拝の痕跡が随所に見えつ隠れつしている。
思わずオイオイとつぶやいてしまいました。180人以上の子をつくった日本史最大の艶福家の正体が女性だなんて!
本書はそれまでにあった幾多の意見を参照しつつ、比較神話学・民俗学・宗教学・歴史学など、さまざまな知見を引用して、「出雲の謎」を解き明かしていきます。たいへんスリリングな読者体験を提供してくれる書物と言えるでしょう。
信仰の純粋さが争いを呼ぶ
巻末に収録された三浦祐之氏の解説は、そこを補ってくれています。同時にもうひとつ、とても重要なことを伝えてくれています。
戦前/戦中において、本書の刊行は不可能でした。
出雲神話を研究することは記紀を研究することであり、政府の思想的支柱である国家神道を深掘りすることにつながります。たとえば、国家神道では神武天皇の即位を皇紀元年とし、西暦1940年を皇紀2600年としていますが、本書の内容を語るためにはそんなはずねえだろと言わねばなりません。戦前/戦中においてそれを主張することは危険思想を語ることでした。弾圧もあり得るでしょう。
戦後になったからこそ本書の主張を述べることができたのです。真面目な研究書であるにもかかわらず、本書には鳥が空をはばたくような自由さが、喜びが横溢しています。それが表現されているのは、本書の大きな特徴のひとつでしょう。
七福神のひとりとして親しまれている大黒様は、仏教の大黒天=大自在天にオオナムチ(オオクニヌシ)が習合したものです。大自在天とはヒンズー教におけるシヴァ神ですから、大黒様には神道・仏教・ヒンズー教が表現されていると言ってよいでしょう。早い話がトム・ブラウンの合体ネタみたいなもんで、あまり上等な考え方ではないかもしれませんが、明治以前の日本では自然な考え方でした(神仏習合)。
むろん、大黒様がシヴァ神やオオクニヌシと同体だと知っている人はほとんどないでしょう。ただなんとなくありがたいと感じ、なんとなく信仰していたのです。
個人的には、この信仰のありかたはとても素晴らしいと思っています。日本人の美徳だとさえ思います。
もめごとの根底に信教の相違があり、それが戦争にまで発展して、すでに東日本大震災の三倍ちかく(数万人)の死者を出しているイスラエルに、この融通無碍な思想があったなら争わずに済んだのではないか。人が死なずに済んだのではないか。そう考えるのは甘ちゃんでしょうか。
わが国の戦前/戦中の状況にしてもそうですが、信仰の純粋さは争いを呼ぶような気がしてなりません。大黒様のふくよかな顔を見るたび、そう思います。そして、はからずも本書は、同じ訴えをしているように思えます。