『平家物語』と並ぶ軍記物語の大作、『太平記』は考えて見ると不思議な書物です。『平家物語』での平家一門にあたる主人公たちがこの『太平記』には見当たらないようです。毀誉褒貶はありつつも『平家物語』では平家一門が主人公として描かれ、物語の底には仏教的な因果論やそれにまつわる悲哀感があふれています。
それに対して『太平記』の主人公は誰なのでしょうか。物語の中核をなす後醍醐帝や楠正成は巻の半ばで物語から消えてしまいます。かといって足利尊氏を主人公としているとも思われません。気弱でためらいがちな尊氏を主人公というのには少し違うように思えます。重要人物ではもちろんありますが……。また、『平家物語』は語り物として知られていますが『太平記』はどうでしょう。もちろん語り物ではありますが『太平記』には、『太平記秘伝理尽鈔』という『太平記』の読み方(注釈)を教えるという書物があるように、どのように読むべきなのか、読まれるべきなのかという点が昔から問題にされてきているようにも思えるのです。
その意味では題名通り、この本は兵藤さんによる『太平記』の新たな読みを試みたものなのです。そして、それは『太平記』の伝わり方の伝統にのっとったものなのかもしれません。
では、兵藤さんが『太平記』に見たものはなんだったのでしょうか。それは南北朝時代を
「まず観念(言葉)があって、つぎにそれに対応する現実が作られたのが、このすぐれてイデオロジカルな時代の特徴」
だととらえ、その時代の権力闘争を名分論(名称を正すことで秩序を確立しようという考え方)的にとらえかえして綴られたのが『太平記』だというのです。
しかもここで作られた名分論的イデオロギーは『太平記』が成立した時代をはるかに超えて江戸時代、明治時代へと影響を及ぼしていきます。その時、『太平記』に描かれた人物は生きた人間であることをやめ、解釈者の思想(イデオロギー)を乗せたあたかも人形にしか過ぎなくなっているようです。とりわけその被害者(?)になったのが楠正成だったのではないでしょうか。
江戸時代のあの赤穂浪士の忠義心も楠正成の姿になぞらえて語られたようです。あるいはまた、正成は由井正雪の乱では反乱者の正雪から、かってに軍学の師とされた上、正雪自身は正成のあたかもパロディのように蜂起して敗死してしまいます。さらに時は下り、明治をむかえると正成親子は再度忠君の士として大きく顕彰されるまでになりました。正成を見捨てた後醍醐帝に最後まで忠節をつくした武士として称揚されるようになったのです。
もちろん後醍醐帝の失政も『太平記』は明確に語ってはいます。けれど兵藤さんが言うように現実が観念にあわされている以上、主君の賢愚は問題にはならないのです。こうしてただ解釈者の熱情(パトス)だけが重要視されていくようになっていくのです。これは近代日本のゆがみを象徴するものでもあるのだと思います。
この本は『太平記』という奇妙でおもしろい物語が、物語を越えて歴史にどのような影響を与えたのかを徹底的に追求した興味深いものです。でもどのような読み方もできる『太平記』そのものをみなさんにひもといて欲しいと兵藤さんは願っているように思いました。
レビュアー
編集者とデザイナーによる覆面書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。