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ドイツ、ユーゴ、中国人。世紀の大問題「ナショナリズム」の正体

ナショナリズム入門
(著:植村和秀)
2016.10.03
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ナショナリズムほどやっかいなものはありません。植村さんによると日本語に翻訳するのもかなりやっかいなもののようです。
──おおまかに言って、国家主義、国民主権、民族主義、国粋主義などと訳せるように思います。しかし何か一つの日本語で、これらのイメージをすべてを代表させることはできません。そのように便利な日本語は、まだ発明されていない、ということです。作ると便利になりますが(略)。──

「争いのイメージ」がつきまといやすい“ナショナリズム”を決して「便利」(=安易)でない方法で、その本質、成立要件、その変貌を解明したのがこの本です。

──ナショナリズムとはネイションへの肯定的なこだわりにほかなりません。──
実に簡潔な定義ですが、難しさはこの先にあります。「ネイション」というものの解明の難しさです。

──このネイションの日本語訳としては、国家、国民、民族といったものが考えられます。国家としてのネイションにこだわる考え方であれば、国家主義と翻訳するのが適切ですし、国民なら国民主義、民族なら民族主義という対応関係が成立していきます。ネイションのエッセンスへのこだわりなら、国粋主義という日本語訳も可能です。──

このネイションの多義性がそのままナショナリズムの多義性に反映されています。

ナショナリズムは近代の産物だとはいわれていますが、ネイションは近代の産物ではありません。ネイションは近代以前にさかのぼれるようです。では、このネイションはどのようにして成立するものなのでしょうか。

──ネイションという言葉は、何らかのまとまりを持つ人間集団を想定しています。(略)すくなくとも一緒に暮らした記憶が必要であり、それはつまり、その人間集団にとって特別な土地が存在しなければなりません。──

人間集団として存在していることが必要なのはいうまでもありませんが、さらに彼らにとって固有の、特権的な(時には排他的な)土地が必要なのです。この土地には生活と支配の歴史が重ねられています。土地と共有された歴史(=歴史意識)、そして成立した共同体を認知する第三者が必要になります。ネイションとは、他者(他共同体、他ネイション)から、「ネイションとして広く強く認知されたもの、そうして初めてネイションたりうる」ものだからです。

人間集団と土地というものがネイション成立に必要なものですが、どちらを中心にしてネイションが形成されたかによって「地域単位のネイション形成」と「人間集団単位のネイション」とに分類できます。そこにはこのような特性が認められます。
──地域単位のネイション形成では、近代国家という地域支配の仕組みを活用して多様な人間集団を統合するのが便利です。他方、そのような仕組みにとっても、地域単位のネイション形成を活用して多様な人間集団を統合するのに便利です。──

──人間集団単位のネイション形成の場合、地域と人間集団との不一致の度合いが高ければ高いほど、不利な組み合わせになっていきます。──

ではこのような視点から世界史はどのようにみえるでしょうか。それがこの本の後半の展開です。

「人間集団単位のネイション」の場合、固有の土地を持っていないための“苦難”ということがすぐに想像できます。ヨーロッパ、とりわけ東欧と呼ばれた地域に頻発した“民族闘争”は、土地を獲得しようとした「人間集団単位のネイション」の悲劇である面が見てとれます。この本ではドイツの変遷とユーゴスラビアの悲劇の解明によって「人間集団単位のネイション」の強さと問題点が指摘されています。

「人間集団単位のネイション」が自身の歴史・伝統・文化を核として形成される場合、ネイション・アイデンティティが純化されればされるほど排他的・闘争的になりがちです。ユーゴスラビアのような多民族国家はかつてはカリスマ的指導者チトーの権威・権力によって統一を保っていました。彼の近代国家的まとまり(一体化)を志向し実践する力が、そこに包摂されるネイションの強度以上のものだった、あるいは個々のネイションを越えて支持されたので、かろうじて国家的まとまりを保っていました。彼の死後は国家的一体化を保つことができずに内戦、崩壊へと至りました。それはネイション間の争いというものだけでなく、一面では、政治権力、既得権益を手放そうとしない支配ネイション層と「人間集団単位のネイション」を志向する人々との闘争だったとも考えられるものでした。

ユーゴスラビアの悲劇の中でナショナリズムが持つ過酷さ、排他性、独善性というものが浮かび上がりました。ここから私たちが学ぶことはまだまだ多いと思います。

近代国家と親和性の高い「地域単位のネイション形成」が典型的にみられるのがアメリカと西欧諸国です。ここでは「そこに暮らす多様な人々が地域の色」に染められていきます。その時引き寄せられるのが“普遍的な理念”というものです。歴史の中に、人為的な理念という文化を埋め込んだといえるかもしれません。ですからいつでも“理念への信奉”を求められるとともに“普遍性への懐疑”と戦わなくてはなりません。

このネイションの形成で特異な国が二つあります。一つは日本です。島国という自然性もあって、大陸諸国より「地域単位のネイション形成」がしやすく、また文化的にも「人間集団単位のネイション」が作りやすい条件にあったのです。もちろん沖縄やアイヌだけでなくネイションを形成できる芽はあったのですが、相対的に文化的統一性を作りやすかったのです。逆にいえば、日本はネイションの苛烈さ、ナショナリズムの排他性・暴力性に対して自覚的になることが少なかったのかもしれません。

もう一つ、特異な国は中国です。中国は近代を迎えた時は異民族(満洲民族)に支配された清という国家でした。その後、革命を経て中華民国、中華人民共和国の成立を迎えたのですが、ここに興味深いことがうかがわれます。それは「中華民族」というものです。この「中華民族という言葉が英語では通常、Chinese Nationと訳され」ています。中国ネイションにほかなりません。これは何を意味しているのでしょうか。

清はいうまでもなく多民族国家でした。中国はこの清の版図を受けついたのです。そして漢民族という歴史的な民族名ではなく、多民族を“統合・統一”した「中華民族」という理念を創出したのではないでしょうか。あるいは「中華民族」という“理念”によって「地域単位のネイション形成」を促したのでしょう。

中国では「人間集団単位のネイション」は政治的な統一を維持するために稀薄化しようとしているようにもみえます。新疆ウィグル自治区、チベット自治区への過剰な(暴力的な)干渉もその動きだと思います。中国が脅迫観念的に思えるほど“統一”にこだわるのは「中国共産党の支配体制」を維持するためのようにみえます。そのために「地域単位のネイション形成」を中国共産党が行っているのではないでしょうか。

近代中国が侵略され続けたという歴史も影を落としているとは思いますが、中国では「大衆にまでネイションへのこだわりが浸透」しています。この中国ナショナリズムの行方には注意すべきだとは思います。

では、ネイションはこれからどのような姿をあらわしてくるのでしょうか。
──人間はネイションに分類されるために生まれてきたわけではありません。ネイション化しているということは、ナショナリズムが現代人の煩悩の一つとなっている、ということです。このナショナリズムの流行はネイションの流行であり、それは世界の分裂です。世界を分裂させていくネイションをまとめ、意味のある世界を新たに作り出していく知恵を出すことが、二一世紀の人類の課題なのではないでしょうか。──
ネイションというものが歴史・伝統を背負っているというのも確かです。ならば私たちはナショナリズムが排他性・暴力性の宿命を負っているは負の遺産でもあることを忘れずに、そのようなナショナリズムに吸収されないようなネイションのありようを模索することが必要です。

20世紀の悲劇をもたらした「ナショナリズム」というものを多角的にとらえたこの本が教えてくれることはこれからもつきないように思います、ナショナリズムが猛威をふるっている現在では。

  • 電子あり
『ナショナリズム入門』書影
著:植村和秀

尖閣諸島問題を巡る中国との軋轢などによって、「ナショナリズム」という言葉を目にすることが多くなってきました。しかし、では「ナショナリズム」とはいったい何なのでしょうか? 著者は「ナショナリズムとは、『ネイション』への肯定的なこだわり」であると定義します。ネイションは日本語では「国家」「国民」「民族」などと訳され独自のニュアンスにどうしても染まってしいます。そこで本書では「ネイション」そのものからナショナリズムを理解するというスタンスを取ります。
なぜ日本人には「ネイション」を理解することが難しいのか? それは日本が、日本列島という「地域」と、日本人というそこの「民族」とが一致している(もちろん、アイヌ、沖縄という例外もありますが)世界的に見てもごく稀な「ネイション」だからです。ですから日本の事例を自明と見なしてしまうと、世界での様々な軋轢が、かえって見えにくくなってしまうのです。本書は、ネイションに、なぜ人々はこだわるのか?という問題意識の元、世界の様々な地域における多様なナショナリズムの構造を分析し、21世紀の世界における最も大きな問題であるナショナリズムについての基礎的な知識を与えるものです。

レビュアー

野中幸宏

編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。政治経済・社会科学から芸能・サブカルチャー、そして勿論小説・マンガまで『何でも見てやろう』(小田実)ならぬ「何でも読んでやろう」の二人です。

note
https://note.mu/nonakayukihiro

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