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グローバル化と被災地復興は真逆 ──国力に国民の利益は必要か?

2016.08.26
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衝撃的な一文があります。
──我が国がグローバル化すればするほど、東北の被災地を復興することは困難になるということだ。──

誰もが当然だと思っている“グローバリズム”というものを「国力」という視点から著者が批判している個所にある一節です。なぜそうなるのでしょうか。

──グローバル化の時代には、企業の利益と国民の利益が一致しなくなる。グローバル化に適応するための構造改革は、国民の利益より企業や投資家の利益を優先するという政策なのである。しかし、構造改革を支える新自由主義というイデオロギーが提示する世界は、利己主義な個人や企業だけで構成されており、そこに「国民」という存在はない。構造改革が国民の利益を優先しないのも、哲学的に考えれば当然だと言えるであろう。──

市場原理主義、グローバル化、新自由主義、構造改革に潜んでいる欺瞞性を的確についています。確かに市場原理主義の行動原則では国家はむしろ資本の移動を阻害するものとなっていきます。つまり「企業、個人が利益を求めて国境を越えて自由に移動」できるグローバリズムこそが“利潤”の追求という至上命題にかなうことになるからです。

けれどこの時、国民(民衆)というものはうち捨てられているのです。資本の“利潤”追求の前では民衆は国民であることをやめ、“利潤”を生む要素に還元されています。

中野さんはそこに疑問を投げかけます。「それは人びとを豊かにできる道なのか?」と。

この本は「国民(ネイション)が団結・連帯して行動することによって生み出される力」である「国力(ナショナル・パワー)」をキーワードに、現在の経済政策・経済学の主流となっている新自由主義(グローバリズム)に対して真っ向から対決・批判した、とても読みごたえのある1冊です。

では、「国力」を生む「国民(ネイション)」とはどのようなものなのでしょうか。また「ナショナリズム」との関係はどう考えればいいのでしょうか……。

中野さんは「国家(ステイト)」と対比しながら「国民(ネイション)」がいかにして私たちにとって重要なのかを解き明かしていきます。
──「国家(ステイト)」とは、政治的・法的な制度あるいは組織である。「ステイト」は、支配力、法の支配または権威といった様々な手段によって人民を統合する。「ステイト」に対する忠誠のイデオロギーあるいは感情は、ナショナリズムというよりはむしろ、「ステイティズム」と呼ばなければならない。(略)これに対して、「国民(ネイション)」とは、一種の共同体として理解される。それは、構成員の社会的想念により統合され、共通の歴史的記憶、公的文化、言語、領土、伝統といったものを基礎にする。──

国民(ネイション)が団結・連帯して行動することによって生み出される力が「国力(ナショナル・パワー)」です。この「国力」を構成する二つの要素として、「ステイツ(国家)の支配力」と「ネイション(国民)の能力」があげられています。

注意しなければならないのは、この「ステイツ(国家)」の性格です。この「ステイツ(国家)」は“健全な近代民主主義国家”でなければなりません。ここをまちがえると「全体主義」「国家資本主義」を招き寄せ、それらを肯定し民主主義を破壊することになってしまいます。

では、この“健全な近代民主主義国家”とはどのようなものなのでしょうか。
──近代民主主義国家が健全であるためには、それが市民社会を内包している必要がある。市民社会とは、国家と個人との間の共同体や中間組織の分厚い層のことである。個人のモラルや賢明な判断は、複数の共同体や中間組織に帰属することによって得られるからである。──

この市民社会が存在することによって「民衆のナショナリスティックな欲求が、そのまま直接国政を左右してしまうこと」が起こらないようにできるのです。つまりポピュリズムの弊害に陥ることを避けることができます。また、逆に、これによって「国家権力がナショナリズムを悪用して、民衆を意のままに操作する」こともできなくなります。専制国家、独裁国家のような全体主義に陥ることを避けられるのです。

この全体主義についても中野さんはとても興味深い定義をしています。
──全体主義とは、民主国家と個人が、直接接触し、大衆の意志がそのまま国家に反映されることによって発生するのだ。言い換えれば、全体主義は民主主義に対立するものではない。直接的に民主的になりすぎた結果が全体主義なのである。──

全体主義に陥ることを避けつつ、「国民の利益より企業や投資家の利益を優先する」グローバリゼーションに陥ることもなく、民衆を、さらには国を富ます(必ずしも成長ということではありません)にはどのようにすればよいか。

中野さんはここで「経済ナショナリズム」というものを提案します。
──経済ナショナリズムは、ネイションの維持と発展を目的とするナショナリズムの一種であり、「ネイションの能力」としての国力の強化を目指す政治経済思想である。これに対して、国家資本主義は、ネイションの利益ではなく、ステイトの財政収入を目的とするものであり、国営会社や政府系ファンドといった組織や制度を通じてステイトの支配力を強化し、世界市場から富を獲得しようとするシステムである。
経済ナショナリズムも国家資本主義も、確かに、経済における国家の積極的な役割を重視する。ただし、経済ナショナリズムは、国家の積極的な介入は国民の利益のために必要だと考える。これに対して、国家資本主義は、国家の役割を、国家を支配する王族や特権階級が富を増やすこととみなしているのである。──

「ナショナリズム」は時に暴走するとても厄介な概念ですが、先の“市民社会”が成立していれば、ナショナリズムの濫用・悪用を防ぐことができます。

では私たちの周りはどうでしょうか。日本は“健全な近代民主主義国家”なのでしょうか。問われるべきことはここにあります。たとえば昨今話題の日本会議などの既成の右翼(ネット右翼も含んで)には“市民社会”という概念がすっぽり抜けているように思えます。ただの過去の(栄光があったと思いこんでいる)美化と羨望があるだけのように思えます。そもそも“近代”自体が抜けています。

私たちの周りには市場原理主義や新自由主義のいう“自由”ということをいたずらに称揚し拡大解釈しがちな経済学者・エコノミストがほとんどです。けれど……、
──主流派経済学においては、「国家」の積極的な機能についての理論がなく、「国民」については分析概念すらないということである。──

つまり、そのような人たちには民衆を富ます「富国」などというものに考えがおよぶはずがないのです。非正規雇用の所得格差の解消のために「すべてを非正規雇用にしろ」という竹中平蔵の主張がネットで拡散されていましたが、このグロテスクな倒錯的思考は“グローバリゼーション”“市場原理主義”“新自由主義”の原理的帰結なのです。

「世界同時不況」「通貨安競争」「東日本大震災」「TPP」といった事例を上げて、現在の経済のひずみを浮き彫りにしたこの本は、「経済ナショナリズム」と「国家資本主義(=全体主義)」の違いを踏まえ、目先の美辞麗句に飾られた政策の正体を知るうえでもきわめて役立つ1冊です。

レビュアー

野中幸宏

編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。政治経済・社会科学から芸能・サブカルチャー、そして勿論小説・マンガまで『何でも見てやろう』(小田実)ならぬ「何でも読んでやろう」の二人です。

note
https://note.mu/nonakayukihiro

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