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【最高の小説】溢れる想いに痺れる「人間へのラブレター」──読後評価抜群!

小説の神様
(著:相沢沙呼)
2016.07.09
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面白い小説はこの世にごまんとある。これは本当のことだと思っている。もしもそんなのは嘘だと思うなら、その人はまだ自分の好きな小説に出会っていないのだろう。
 
この問題の解決は、たぶん簡単だ。予算の許す限り、少しでも気になった本を手当たり次第に読んでいけば、そのうち好みの小説に出会う。そういうものだと思う。面白い小説はこの世にごまんとある──僕のこの言葉が正しいなら、そんなに分の悪い賭けでもない。

しかし、「面白い──だけではその作品の魅力を語り尽くせないほど大きな力を秘めた小説」に出会う機会は、やはり稀なことなのかもしれない。読者は、このような作品を「傑作」と呼ぶ。掛け値なしの傑作。だからそんな作品に出会ったとき、人は刹那的に理屈を超えて本能を刺激される。人を人たらしめているあらゆる感情を乱暴に揺さぶられてしまう。堪え切れずにさめざめと泣いたり、意識を全部どこかに持って行かれるような感覚に陥ったり、ときには息ができなくなるような窒息寸前の状態にさえさせられる。単なる言葉の羅列を超越した凄絶な力──物語だからこそ放つことができる“魔力”が、さながら怨霊のように人に取り憑くと言ってもいい。

言うまでもないだろうが、あえて言う。人に取り憑くことができる小説なんて、そうそうあるものじゃない。簡単に出会えるものじゃない。街に出てちょっと歩けば、見た目が好みのタイプの異性に出会うのは比較的容易だと思われる。でも、自分が恋い焦がれている人や大好きな芸能人に出会えるかというと、それは難しい。上手い比喩とは思わないが、そういうものだ。
 
だから、本当に久しぶりだった。出会った瞬間(小説を読んでいる最中、読み終えたあとも)、脳髄に落ちた電撃が何度も何度もしつこいくらいに爪先まで走り抜けていった小説は。

面白い小説は、もう何年も読み続けている。幸い、僕はたいていなんでも楽しめるタイプなので、ほぼ毎週面白い小説に出会っている。面白いだけでは説明しきれない小説にも、今年だけで何冊読んだことだろう。
 
だが──、こんなにも感情を弄ばれた小説は、いつ以来だ!? 

『小説の神様』を読んでいるとき、僕の心は、荒海に放り出された脆い造りの船のようになっていた。間断なく打ち寄せる波濤に揉まれ、ともすれば転覆しそうになるほど僕の心を上下左右に揺さぶり続けた。いや、もう何度転覆したのかわからない。沈みゆく船を振り返る間もなく、それでも陸を目指して泳ぎ続けた。鼻と口から塩っ辛い海水が入り込んで肺を浸し、苦しくて、冷たい海の底へと引きずり込まれそうになる。そんな心境にさせられた小説だった。

僕を──いや僕だけでなく、ジャンルを問わず物語を創作した経験のある者なら、そんなふうになってもちっとも不思議ではないこの作品の主人公は、千谷一也(ちたに・いちや)。高校生2年生の売れない小説家だ。3年前の中学2年生の頃に、「一般文芸のそれなりに名のある新人賞でデビューした」覆面作家でもある。期待の若手として売り出したい出版社の意向を固辞して、覆面作家として世に出た理由は、「色眼鏡なしで自分の作品を評価してほしかった」からである。

彼の気持ちはわかるつもりだ。誰だって、偏見なしで自分や自分の作品を評価してもらいたいと考えるものだろう。しかしその一方で、プロフィールを公表して売り出した方がよかったろう、とも思う。「中学生作家」の肩書きがあれば、本が売れたかもしれない。年齢のことでアンチが口うるさく騒ぎ立てるだろうが、それを差し引いたとしても、たくさんの読者がついたかもしれない。でも、一也はそうしなかった。それは作家としての純粋さである反面、ビジネス的な視点に立てない年相応の若さでもあったのだろう。そのためかどうかはわからないが、デビューから3年、彼の作品はまったく売れなかった。新作を出すたび部数は減り、書店にもほとんど並ばない。
 
見なければいいのに、売れない現状への救いを求めて、ネットで自作の評価を確かめては、心ない酷評の嵐に涙する。僕からすれば、それは酷評の名にすら値しない下劣な中傷だ。人の愚かさの極みだ。少なくとも公的には存在すべきではないものだ。そんな愚劣なものに剥き出しの心を壊され、人としての尊厳を踏みにじられて、塞ぎ込んでいく。
 
作中の描写によると、一也はもともと明るい性格ではなかったらしい。そんな少年が、無慈悲な言葉の暴力に嬲られ続けた。そりゃ、ますます根暗にもなるし、絶望に打ちひしがれて、卑屈な言葉も吐き出したくなるだろう。

「僕は、もう小説を書くつもりはないんです」

一也は担当編集者の河埜(こうの)にこう告げる。それだけ辛いのだ。それでも小説を書き続けてきた理由のひとつとして、一也は「僕は、お金のために、小説を書いている」と言う。彼の父親も売れない小説家だった。そのくせ専業作家にこだわり、借金を残して死んだ。妹の雛子(ひなこ)は病気で入院中、手術にはお金がかかる。だから小説を書いているのだと……。

一也は、「誰かの心に響く小説を書きたい」と熱心に語る文芸部の後輩、成瀬秋乃(なるせ・あきの)にこんなことまで言う。

「小説が──、人の心なんて動かすものか」と。
「物語がどれだけ愛や勇気を語ったところで、それは人の心には届かないよ。小説は誰の心も震わせない。誰にも響かないし、誰の心にも届かない」と。
「たかが創作の物語に、なんの力がある?」と。
 
もっともらしいこれらの言葉は、どこか呪詛のようでもある。売れない自分や、報われないことへの恨みつらみ。
しかし、この言葉に毅然と反論した者がいた。転入生で、クラスメイトの小余綾詩凪(こゆるぎ・しいな)だ。彼女は言う。
「小説には、わたしたちの人生を左右する、大きな力が宿っているわ」と。
「わたしには、小説の神様が見えるから──」と。

その容姿同様、美しく、大それたことを言い切る小余綾詩凪は、実は売れっ子の人気小説家なのだった。しかも担当編集者が一也と同じ河埜であり、彼女からふたりでの共作を提案される。詩凪がプロットを作り、一也が文章を書く。

ふたりともオファーを承諾したものの、陰陽のように性格の異なる両者なので、当然、執筆に際して何かと衝突する。その過程で、一也は微かな希望を見出したり、再び絶望の谷間に転げ落ちたり、有無を言わせぬ調子で勝者の論理を語る詩凪と口論を繰り返しながら、それでも、ふたりの共同作品は完成へと近づいてゆく。
 
詩凪曰く、小説とはラブレターのようなもので、「溢れる想いが、正確に伝わるように、丁寧に丁寧に綴って、この作品を好きになってもらえるよう、願いと祈りを抱きながら届けるもの」だそうだ。

終盤になり、一也は、そんな詩凪のことを“より深い次元”で知ることになる。それを通じて、一也は変わってゆく。詩凪もそうだ。
 
そのとき、一也は彼女に言う。
「物語は、願いだ」と。

人間は醜くて、穢らわしい。それが現実なのだとわかっている。でもだからこそ、一也は「優しいお話を書きたい」と思ったのだ。

──それでも、いつかのとき、世界の誰かが、もうそれ以上泣かないですむように──

この物語には(『小説の神様』と、一也・詩凪の共同作品。その両小説には)絶望と希望が濃密に存在する。絶望とは、一也がことあるごとに吐露する八方塞がりの現状やそれを作り出した一因である己への恨み節だけではない。人を嘲ることを当然のように思う昨今の醜い世相、その主体たる人間への絶望。だが、まだ諦めたくない。きっとそう思うから、この話には「願い」がある。一也と詩凪は共作に願いを綴ろうとする。優しい物語を紡ぎ出そうと苦心する。
 
それは単に小説の話にとどまらず、人の生き様に関わってくることだ。この世がどんなに汚くても、それでも、少しずつでも改善されてゆくと信じたい。理想論や絵空事だとしても、そう思わなければ何も変わらないし、始まらない。可能性ですらない。でも、ただ自分ひとりで思うだけでは、やはり現実の巨大な闇に押し潰されそうになる。だから、せめて物語で、優しさに触れたい。人を信じてもいいと思えるだけの優しさに。

『小説の神様』にはそれがある。『小説の神様』で語られる物語は、小説の話だけではない。絶望と醜さ、そして希望と願いと優しさを綴った極めて普遍性の高い「人間へのラブレター」だ。だから、この物語は傑作なのだ。いろんな人に読んでほしい。心からそう思う。

レビュアー

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赤星秀一

1983年夏生まれ。小説家志望。レビュアー。ブログでもときどき書評など書いています。現在、文筆の活動範囲を広げようかと思案中。テレビ観戦がメインですが、サッカーが好き。愛するクラブはマンチェスター・ユナイテッド。

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