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中年マンガ家は、『罪と罰』だけを読んでデビューした
たしか太宰治だったと思う。近所に住んでる老人は、鏡を見ないでヒゲをそる、と書いていた。
ここには、ふたつのことが語られている。ひとつは、経験を重ねないとできないことはたしかにあるということ。よほど熟練しなきゃ、鏡見ないでヒゲそれない。
もうひとつは、それは大したことじゃないということ。鏡を見なきゃヒゲがそれないなら、見りゃいいのである。年齢や経験を積んで得るなんて、その程度のことだ。
作家にはまったく同感だ。
年寄りがすることなんざ、大したことじゃない。本当に大事なこと、尊いことは、いつだって若い人が切り拓く。
でも、歳喰わなきゃわかんないことってあるんだよ。それは大したことじゃないかもしれないよ。でも、それを発見した当人にとってはそれなりに重要なんだ。
『ナニワ金融道』の作者、青木雄二氏に会ったのは、作品が最終回を迎え、氏がマンガ家を引退されてからのことだ。
「マンガ家引退」と簡単に言ったけど、そんな人、滅多にいない。たとえば藤子不二雄A先生は、齢八十を超えているのに、まだ描かれている。たぶん、描けなくなるまでやるつもりだろう。
普通は、藤子不二雄A先生のような態度になる。すなわち、「描けなくなるまで描く」。
「描けない」状態になるのは、肉体的な衰えばかりじゃない。「注文がない」状態も同様に「描けない」状態だ。そして、後者の方が圧倒的に多い。
したがって、青木氏のようなマンガ家引退宣言はすごくめずらしいのである。
その青木氏が言っていた。
「デビューする前、ドストエフスキーの『罪と罰』を何度も読んだ。『罪と罰』は小説の最高峰だろう?」
氏はそう言って、『罪と罰』の冒頭を諳んじてみせた。暗記するほど読んだってことだろう。
青木氏は、デビューが遅かった。デビューしたときは、40歳を超えていた。たしか、新人マンガ家の最高齢記録だったと思う。
人間、40歳を超えるとわかることがある。そのひとつが、残された時間の少なさだ。自分に残された時間はそう長くはない。こればっかりは、年齢を重ねないと実感できない。
「賞金が欲しかったから新人賞に応募した」
氏はそう言っていた。本当だろう。同時に、背水の陣の自覚もあったはずである。今回ダメだったらスッパリあきらめて、別の道を探そう。そう思っていたはずだ。
今回ダメなら、次回があるじゃないか。人はそう言う。そのとおりだと思う。
でも人間、そう何度も同じチャレンジできるもんじゃないよ。ことに40越したオッサンはそう何度もチャレンジできない。それは、不屈の精神とはいわない。あきらめが悪いって言うんだ。
だから『罪と罰』だったのだ。
自分が青木氏が鬼籍に入った年齢に近づくにつれ、そう思うようになった。
以前は小説の最高峰だから、という氏の説明を鵜呑みにしていた。いや、そのとおりだよ。
だが、その背後には、40を越えた人間しか持つことができない思想があったのだ。
「自分には無限の時間はない」
「しくじることはできない」
「ストーリーテリングの勉強をしたい。先生につくか、たくさん本を読み、たくさん映画やドラマに接するか、どちらかだろう」
「だが自分にはそれをする時間はない」
「短い時間で効率よく学ぶには、最高峰を知ることだ。他は接さずともいい『これ』を知ることだ」
そう考えたから『罪と罰』だった。言い換えれば、万巻の書を読む時間がないから、『罪と罰』だったのだ。
それを知って読むと、『ナニワ金融道』第一話には、残された時間が限られていると悟った者だけが感じる、焦燥感までが表現されているような気がする。氏はスクリーントーンを使わず、背景まで描くことで有名だが、その表現も単なるオリジナリティではなく、焦りまで含んだ異様な感覚がそうさせている気がする。
以上のことは、青木氏に会ったときにはわからなかった。
年齢を重ねた今だからこそ、わかるのだ。
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レビュアー
早稲田大学卒。書籍編集者として100冊以上の本を企画・編集(うち半分を執筆)。IT専門誌への執筆やウェブページ制作にも関わる。日本に本格的なIT教育を普及させるため、国内ではじめての小中学生向けプログラミング学習機関「TENTO」を設立。TENTO名義で『12歳からはじめるHTML5とCSS3』(ラトルズ)を、個人名義で講談社ブルーバックス『メールはなぜ届くのか』を出版。いずれも続刊が決まりおおいに喜んでいるが、果たしていつ書けばいいんだろう? 「IT知識は万人が持つべき基礎素養」が持論。
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