大変よいものを読んだ!
恋に落ちる理由なんてのは大抵の場合むちゃくちゃで、なにかしらの変態性をはらんでいる。ほぼ事故のようなものだし、カオスであればあるほど、すさまじい磁力を放つ。『かさねと昴』もそんな強いマグネットのようなマンガだ。読後に「よいものを読んだぞ!」と鼻息をフンスカさせながら部屋を歩き回ったがまだ落ち着かない。
恋する人間の心の行ったり来たりって、なんて不格好で美しいのだろう。一直線じゃないのだ。猛スピードで3歩進んだと思った次の瞬間には斜め後ろに2歩下がってる。きっかけもヘンテコだし進行ルートだって謎。でも前に進んでいく。
“柴田かさね”の恋のきっかけは「お尻」だった。
この瞬間、かさねの手のひらが上向きじゃなかったら、このチャーミングな物語は始まっていなかっただろう。そう思うと尊い場面だ。よかったよ、お尻がジャストフィットして。
思いっきり揉んじゃったんです
おもちゃ会社で2Dデザイナーをしているかさねは、社内のイベント中に同僚の“榎田昴”のお尻を意図せず触ってしまう。というかガッツリ揉(も)んでしまう。なぜならその感触があまりに「よかった」から。
ふと遠い昔の記憶まで呼び起こすような、つまりプルーストの『失われた時を求めて』的事象が男の尻の感触によってもたらされたのだ。
当然だが「会社の同僚の尻を本人の同意なく勝手に揉みしだく」はコンプライアンス的にまずかろう。
昴がどんな人なのかよくわからない。でもきちんと謝罪しなきゃ。それはそれとして、やっぱり昴の尻のことが気になる。詫(わ)びたい気持ちと興奮でむちゃくちゃだ。
こんな会話聞いたことないよ。でもかさねの誠実さと探究心はよくわかる。
どうにか昴に直接謝罪をするのだが……、
「終わった」みたいな顔で怯(おび)える昴。あと間違いなく尻に手をやっている。どうしたの? そして尻をおさえたまま猛スピードで走り去る昴と、あっけにとられるかさね。この二人がやがて恋に落ちるなんて、誰が想像するだろうか。
そんなにやわらかかったんですか……?
尻揉み事件を越えるインパクトをもたらした尻おさえ退場事件のあと、かさねはあらためて詫びを入れる。昴もあの奇っ怪な逃走劇を気にしていたようで、二人はじっくりお話し合いをすることに。
尻揉みについてはお咎(とが)めナシのよう。じゃあなんで逃げたんだろう。それはそれとして、かさねは昴の尻の素晴らしさを昴本人に語り始める。不滅のオブセッションだ。
ん? 「そんなにやわらかかったんですか……?」とは? 私はこの言葉が好きでしょうがない。この瞬間、彼は手応えを感じたのだ。実は尻をパックで丹念にケアしているのだという。かさねがあまりに「最高!」と絶賛するからウッカリ言っちゃって、しかもかさねは「男が尻にパック?」なんて微塵(みじん)も思ってない。だから昴は今まで誰にも言わなかったことを打ち明ける。
昴は女装をたしなむ男だった。
人から向けられる好意ってやっぱりわかる
昴の尻に心を奪われたことがきっかけだったけれど、昴が大切にしてきた秘密の世界に少しずつ迎え入れてもらうにつれ、かさねは昴本人のことが気になってしょうがなくなる。
女装男子のあれこれを知ることは、昴を知ること。だから女装サロンに一緒に行ってみたり。
なるほど、覚えました。
今まで家の中だけで女装を楽しんできた昴は、かさねの後押しで女装をしたまま街に「おでかけ」する。そこであるアクシデントに見舞われる。
昴に肩を抱きかかえられたかさねは……、
少女マンガでズブズブな私にはわかる、こんなん無理よ、確実にこうなる。そしてこのまま「好き!」と言わないのが、本作の繊細で可憐なところだ。そもそも昴の恋愛対象は女性なんだろうか? 昴って「女友達」? ああ、関係を壊したくないよ。
そう、スーパー鈍感でもない限り、相手も気づく。人間関係にまつわる名言がいっぱいあるマンガだ。
行きつ戻りつの二人の恋路には「女装」が常にある。
かさねを誘うためにも女装でのおでかけに慣れたい昴。もうね、ホントいい話なんですよ、大好き。
かさねは女装した昴の「いい」ところをいっぱい見つける。
うん、いい。なんともいえない色香を感じる。そういえばこのマンガからほのかに漂う色香と似ている。カラッと明るくて優しいのに、境界線があるようでないような、まるで良い香りの泥のような色香がときどき待っている。とてもいい。
ほら、こういうところ。曖昧でなんともいえない良い香りがしませんか。
レビュアー
ライター・コラムニスト。主にゲーム、マンガ、書籍、映画、ガジェットに関する記事をよく書く。講談社「今日のおすすめ」、日経BP「日経トレンディネット」「日経クロステック(xTECH)」などで執筆。
twitter:@LidoHanamori