本当にあった「人生の落とし穴」
人生を変えるには「住むところ」「付き合う人」「仕事」を変えるといいらしい。自分の意思でそうするならば、確かに効果がありそうだ。でも、全部が強制的に一新されてしまうのは、シンプルに「人生どん底」だからでは? 『ハマる男に蹴りたい女』は、エリート人生からこぼれ落ちた男が「らしくない」人生に振り回されまくる物語だ。ズボラ女子にこき使われたり、なぜか欲情されたり……。元エリートの明日はどっちだ?
設楽紘一は、大手飲料メーカーで商品開発を担当している。手掛けたビールは大ヒット商品となり、シュッと整った見た目もあって社内でも目立つ存在だ。
イケメンなのに堅物なのがさらなる好感を呼ぶし、美しい妻と一緒に住んでいるのはタワーマンション。完璧すぎて嫌味なくらいだ。仕事についてはこだわりが強く完璧主義、できる自覚もあるからか、何かと強引なワンマンプレーにも走りがち。
そんなイケイケで強引な仕事ぶりを「鼻持ちならない」と嫌う人間もいる。突然、子会社(しかも来年なくなる!)へ転籍の内示が出る。事実上のリストラだ。
支えてくれるはずの妻は離婚届を置いて消えていた。令和に生きるサラリーマンも、「一夜にして全てを失う」って、マジであるんですね……。そんな妻の置き土産・離婚届はこちら。
書いてあることもまあまあひどいが、これに証人のサインをもらって役所に出すってとんだ辱(はずかし)めなのでは……。「突然」と思っているのは紘一だけで、リストラにしても離婚にしても、周囲にはそれなりに思うところがあったみたいだ。
仕事はさっさと辞めたし、1人で広いタワマンに住む理由もない。そんな紘一に「転職活動しながらできるとりあえずの仕事」として紹介されたのは、まかないつきの下宿の管理人。都心の一軒家にただで住めるのはありがたいし、転職だってすぐできるはず。つなぎとしてなら、まあいいか……。
なんで俺がこんなことを
管理人として下宿の掃除と朝晩のまかない作りを担当すれば、家賃、光熱費はタダ。そんな紘一をアゴで使うのは下宿の古株住人「西島いつか」。下宿にいると干物女子っぽく見えるけど、一歩外に出れば仕事のできるキラキラ女子だ。
最初からできる女だったわけじゃない。会社から徒歩圏内で、おいしいまかないつきの快適な下宿に引っ越して、全ステータスを仕事に振った結果、手に入れた姿がこれなのだ。
これには大きなきっかけがあった。3年前、いつかの初めての顧客プレゼンで2人は顔を合わせていた。紘一は怒涛のダメ出しをしたあげく、トドメの一言を言い放つ。
そう、いつかと紘一は初対面じゃない。紘一のほうは、いつかのことを覚えてもいないのだけど。それどころか、いつかが愛人を探していると思い込み「俺はあんたを抱けそうにない」と超上からの一方的なダメ出しもしたけれど。
紘一が完璧主義を発揮してピカピカに磨き上げたお風呂を見ながら考える。思いもよらない再会だ。相変わらず失礼だけど。
最悪の出会い(いつか的には再会)のためか、いつかの紘一に対する態度はかなり厳しい。ツンデレじゃない、ツンツンだ。まかないへのダメ出しだって容赦ない。
「カレー『で』いいので」なんて言って紘一に作らせたカレーをひっくり返し、脚に浴びてしまう。火傷(やけど)した脚を冷やしてくれる紘一を見下ろしながら思う。
ん? ん?? なぜそうなる??
「押し倒したくなるのは、管理人さんだけなんです」
私も友達がこんなバグったことを言い出したら、同じ反応をすると思う。鈍感だから「アテがない」とか言っているけど、いつかは結構モテるのだ。
それなのに。
いつかが押し倒したくなるのは紘一だけ。突然のカミングアウトに紘一も戸惑いを隠せない。「あんたのことを抱けそうにない」が、撤回される日はくるのか?
理解できない問題に、飛び込んでみたい
わかる。
同じ屋根の下の誰かの優しい気配は心を癒やす。紘一は良くも悪くも他人に興味がないから仕事だけに邁進してこれたし、妻が離婚したがっているのにも気づかなかった。思ったことを無神経に口に出してもきた。でも、管理人になってからは違う。仕事への細かな神経の使い方に加えて、意外に寂しがり屋な面や、火傷したいつかに見せた男らしさといった魅力がにじんできているように見える。そんな紘一の変化はいつかにも伝わり、紘一にこんな顔を見せたりもする。
胸がざわつく。なんなんだ、西島いつか! 理解できない問題にも、感情にも、興味がなかった。でも今は、理解できない問題に飛び込んでみたい。紘一の心にも今までと違う風が吹き始めたみたいだ。
レビュアー
ガジェットと犬と編み物が好きなライター。読書は旅だと思ってます。
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