「僕は数学者になれない」
「自分は"それ"になる」と信じていた人が、「自分は"それ"になれない」とわかってしまう瞬間に立ち会うと、ツーンと胸が痛くなる。でも、その痛みから始まる物語は、熱くてまぶしい。「自分の道」を見つけて、そこに挑む物語。『フェルマーの料理』もそういうマンガだ。元気が出て、そしてお腹がすく。
主人公の"北田岳(きただがく)"は高校3年生。数学オリンピック出場を狙えるくらい優秀な子で、かつては私立ヴェルス学園の特待生でした。なんで過去形なのかというと、彼は気づいちゃったんです。「僕は数学者になれない」って。
もともと数学が得意で「楽しくって仕方なかった」岳。
棋士の羽生善治さんも「正しい手が光って見える」とインタビューでおっしゃっていたが、岳にもそんなふうに冴えわたる時期がありました。でも、数学オリンピックの春合宿で自分と周りとの違いを悟ります。
とても残酷な話だけど、キレキレに澄みわたった自分を経験した人は「今の自分はそうじゃない」ことも敏感に察知するのだと思う。
だって合宿メンバーのこの表情と言葉。ただ数学に秀でた少女ではなく、もはや求道者です。
この春合宿での挫折をうけ、岳は特待生の座からも引きずり降ろされます。そして何者にもなれない喪失感に包まれ、学食でバイトしながら残り数ヵ月の高校生活をボーッと送ることに。
岳は学食バイトの賄いでナポリタンを作りながら「料理は楽だ。ぼーっと考えている間に終わってくれる」とつぶやきます。これ、要注意のセリフです。このナポリタンから物語は大きく動き始めます。
お前の数学的思考は、料理のためにある
岳が何気なく振る舞うナポリタンは、どこかが違います。
どう違うか。
少なくとも黒フードを被った謎の男が乱入してムシャムシャ食べ始めるくらいは違います。奪ったナポリタンを食べ終わった男の反応は……?
こっわ!
怖い人、料理人でした。名前は"朝倉海(あさくらかい)"。都内の1つ星レストランの若きオーナーシェフです。岳がナポリタンを作る様子を見て、そしてそのナポリタンを食べて、まだ誰も気づいていない岳の「とある資質」を見いだします。
海も岳にナポリタンを作ってお返し。かっこいいのに圧がすごい。そして、海のナポリタンを1口食べた岳は……。
めくるめく数字、はじけるトマト! 最高に激しい表情を見せる岳。新世界のドアが開いちゃいます。
数学の解法を見つけることと、料理のレシピを導き出すことは似ている! 岳が「何も考えずに」料理で行っていたことの数学的な価値と、岳ならさらに高みを目指せることを、海は見抜いていました。
海もまた、あの数学オリンピックの春合宿で出会った猛者たちのように「自分の選んだ道を追求する人」なんですね。そんな海の料理と言葉に触発されて、岳の頭がフル回転し始めます。
調理シーンが登山。最高の料理を作りたい料理人の頭の中はこんな風に情報がクルクル巡っているのかも。
岳は、料理によって、かつての「数学が楽しくって仕方なかった自分」の気持ちを取り戻します。
覚醒した岳が作るナポリタンをハフハフ食べてるおっさんたちが心底羨ましい。私は最後のコマのメガネさんと同じように「う」な展開になると思う。
理論とひらめきの両方が大事。だから数学と料理は似ている。岳は「最高の料理人になれる自分」を見つけます。
本作が1巻の半分以上のページを割いて理論的かつファンタジックに「ナポリタン」を語り尽くすので、読んでるこっちの頭も「ナポリタン!」で満タンになるんですが、根っこにあるのは、くじけそうになっても「打ち込めること」を見出し、そこに挑み続ける求道者たちの物語です。
なんてかっこいいセリフなんだ。お腹はすくのに頭と心は大満足になる。各エピソードの最後に丁寧なレシピも付いているので、岳たちの天才ぶりを体感したい人はぜひ挑んでください。
レビュアー
元ゲームプランナーのライター。旅行とランジェリーとaiboを最優先に生活しています。