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2019.06.07

レビュー

安彦良和が作家生命をかけて挑む最後の連載。シベリア出兵を描く一大戦争巨編

『ガンダム』からマンガ家へ

安彦良和さんは、『機動戦士ガンダム』のキャラクターデザインを担当された人です。アムロやシャアは、彼の筆から生まれました。
1979年以降の日本のアニメーション、ひいては日本のポップカルチャーを『ガンダム』なしで語ることはできません。安彦さんを「レジェンド」と呼ぶことに異論のある人はすくないでしょう。

とはいえ、『ガンダム』以降の安彦さんは、徐々にアニメの仕事から離れていきました。
富野由悠季監督(『ガンダム』の監督)とコンビを組んでいたわけですから、アニメの仕事を続けることは可能だったはずです。だが、彼はやがてアニメから離れ、マンガ家として仕事をするようになります。

なぜマンガを選んだのか。そこにはさまざまな理由が考えられます。もっとも大きかったのは、「自由だった」ことではないでしょうか。

マンガなら、自分の名前で、(アニメに比べると)ずっとすくない人数で作品を仕上げることができます。
『虹色のトロツキー』『王道の狗』そして『天の血脈』。安彦さんのマンガ作品の多くは、アニメの題材に適してはいません。物語が貧弱だからではない。アニメにどうしても必要な「メジャー感」に乏しいからです。長くアニメの現場で仕事をされてきた安彦さんには、そのことが十分すぎるほどわかっていました。

アニメーションの世界で共同作業に携わった後には、漫画家として、基本的には地味な作品を描いてきました。その「地味さ」の中にも、良いところがあったんじゃないかと思います。いつも、違う方向の考え方が、せめぎあっていたんですけどね。

一方では、おれはメジャーな漫画家ではないんだよなぁ、といういじけた気持ちがあった。でも、もう一方では、細々と描いているからこそ、売れ線を気にしたり、意に沿わない設定で描いたりするような無理なこともなかったんだ、とわかっていて……。

地味な作品だからこそ、売れ線を気にせず、自分の描きたいものが描ける。安彦さんはそう語られています。

本作『乾と巽』は、「最後の連載」と銘打って執筆されたものです。このコピーを考案したのは編集者だそうですが、安彦さんは「いいよ、そうなるだろうし」と言ってこれを許諾したそうです。

シベリア出兵とロシア革命

『乾と巽』は、シベリア出兵の物語です。
……と、いっても多くの人はわかったようなわかんないような話でしょう。第一次世界大戦のときの話だよ、ロシア革命のときの話だよ、といえばなんとなくイメージがわくかもしれません。



ロシア革命が起きるのは、1917年のことです。それまでロシアは帝政、つまり帝王による統治がおこなわれていましたが、社会主義勢力による革命によって、帝政は打倒されます。これがのちのソビエト連邦の建国につながっていくのですが、革命と同時にソ連ができたわけではありません。社会主義勢力と、帝政を維持していた勢力(反革命派)とで内戦がおこなわれ、これが5年もつづいたのです。
本作でも印象的に描かれているセミョーノフは、反革命派の要人として活躍した人ですが、一説によれば、帝政ロシアにもソビエトにも属さない新たな国家をザバイカルに打ち立てようとしていたといわれています。



ロシア革命が起きたのは、第一次世界大戦のさなかでした。第一次世界大戦とはものすごく雑にいうと連合国と枢軸国のチームバトルですから、ロシアの政治システムが変わると座組が変わってしまうのです。また、社会主義国家が世界のどこにも存在しなかった時代、ソビエトの建国は大きな脅威でした。

結果、じつに多くの国がシベリアに派兵しました。『乾と巽』はここから物語がスタートします。ロシア語と日本語は言うにおよばず、同じ場所で英語も仏語も中国語も交わされているさまが描かれています。この時代の人のほうが現代日本人よりずっと国際感覚がゆたかでした。



第一次世界大戦の終了とともに、多くの国はシベリアから兵をひきますが、領土的に近く、長くロシアの南下政策に悩まされてきた日本はなかなか撤兵しませんでした。

首相もつとめた政治家・加藤高明はシベリア出兵についてこう評しています。
「なに一つ国家に利益をもたらすことのなかった外交上まれにみる失政である」

さらにつけくわえるならば、このシベリア出兵が満州事変ひいては二・二六事件(大規模なクーデター事件)の遠因となり、第二次世界大戦すなわちアメリカとの勝てるはずのない戦争に発展していくことになります。




最後の連載に託されたメッセージ

このあたりの歴史は、学校ではあまり詳しく教えられません。諸説入り乱れているため、文科省がハッキリした見解を示していないことが大きな要因でしょう。常識が形成されていないため、戦国時代や幕末のようにエンターテインメントの舞台になることもすくなく、知らない人がとても多くなっています。

安彦さんの世代は左翼運動(学生運動)がさかんでしたから、本作で扱っている時代について、ある程度の知識を得る場所がありました。左翼運動をするのにロシア革命についてまるで知らないとは考えにくい。

しかし、ソビエト連邦の崩壊によって、こうした知識は一気に古いものになってしまいました。
結果、わたしたちは近現代史を得る場所を失ってしまったのです。安彦さんが作品のタイトルにも取り上げたロシア革命時代の思想家トロッキーに関しても、「まったく知らない」人も多いことでしょう。

安彦さんがこれをゆゆしきことと感じられたかどうかはわかりません。しかし、安彦さんは最後に伝えるべき題材として、この時代を選択されたのです。
「地味」になってしまうのはわかっている。しかし描き残しておきたい。『乾と巽』には、そんな気持ちが表現されているように思います。
さらに、安彦さんの過去作に接している者ならわかるでしょう。安彦さんは明らかに、この地域の歴史にこだわりを持っています。(『乾と巽』の主人公の柔術の師匠の名からも作品の連続性は明らかです)



ここはいずれ満州国が建国される土地である。第二次世界大戦への日本参戦の引き金になった土地である。日本の近現代史を学ぶ上で、もっとも重要な土地である。だから描かなければならない。知ってもらわなければならない。
自分には、作品がそう語っているように思えてなりません。

ロシア革命や、その後に起きた社会主義の時代とその運動について描くことも、自分では気になり続けているテーマなんです。世代的に、社会主義に憧れもし、幻滅もしたわけですから。レーニンが起こした革命からはじまる大きな「うねり」の特徴のひとつは、「これは、科学的だから正しい、認めろ」という迫り方をする点だったように思います。「科学」ですから、それは宗教の対極でもあるはずなんだけど、実は限りなく宗教に近い。

それは、「もう、いまはそんな時代ではないから大丈夫」と言って済む話ではないんですね。「どこから見たって異論の持ちようがない正しそうな考え」というのは、いわば、「これは、科学的だから正しい、認めろ」というのに近い。そういう一見正しそうな言説というのは、いまも、別のかたちで生き残っています。

(文中引用した安彦さんの発言は本作連載に際してのロングインタビューから引用しました。『乾と巽』ばかりでなく『ガンダム』に関する発言までをふくんだとても興味深い記事です)

レビュアー

草野真一 イメージ
草野真一

早稲田大学卒。元編集者。子ども向けプログラミングスクール「TENTO」前代表。著書に『メールはなぜ届くのか』『SNSって面白いの? 』(講談社)。2013年より身体障害者。
1000年以上前の日本文学を現代日本語に翻訳し同時にそれを英訳して世界に発信する「『今昔物語集』現代語訳プロジェクト」を主宰。https://hon-yak.net/

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