漫画作品によって、これまで知らずにいた“古典”と出会うことができる――。その喜びをいま噛みしめている。
昨年の春は、2018年最大のベストセラー『漫画 君たちはどう生きるか』(吉野源三郎原作、羽賀翔一漫画、マガジンハウス刊)を読んだ。その記憶も新しいまま、この春、『漫画 働くということ』を読んで確信にかわった。漫画はすごいよ。本書の原作も『君たち~』のように、やはり長年読み継がれている“古典”的ロングセラー(黒井千次著『働くということ』講談社現代新書)だという。漫画家、池田邦彦氏に真っ先に感謝したいと思う。
本書は、働くひと「神部万次」を主人公にした会社員物語だ。就活期からはじまり、入社、配属、研修、異動、そして退社(独立)まで。全10話にわたって主人公の目線で貫かれた私小説のようでもある。ページをめくりながら、主人公の半生にグイグイ引き込まれる。
「神部万次」は自分のことだ――。読みながら、そう思わずにはいられなかった。
冒頭なんて自分そのまんまだ。大学4年生のある日、就活案内の構内掲示を見て焦(あせ)ったのも、なんとか潜り込んだ会社の初出社日、学生時代の自由な生活に二度と戻れないと気付いてドンヨリしたのも、そうだ。
だんだん会社に慣れていくうち遭遇する決定的場面も、自分の体験とオーバーラップする。生意気にも会社業務の全体を把握したくなり、他部署の仕事に首を突っ込んでみたら先輩社員の逆鱗に触れた“冷や汗体験”。何事も無難にやり過ごす態度が好きになれなかった同僚と、あるプロジェクトを共にしたことで気持ちが通じあってしまった“バディとの出会い”。エトセトラ、エトセトラ。
そんな気恥ずかしくもあり、誇らしくもある、いくつもの記憶がじんわり蘇ってくる。ぜんぶ自分の話じゃないか。
時代設定は半世紀以上も前。昭和30年から40年代にかけての話なのに、自分の境遇にすっと重なっていく。
人物設定もそうだ。じっさいには主人公のように経済学部出身(モデルであるはずの原作者プロフィールを見たら、なんと東京大学!)でもなければ、自動車メーカー勤務(なんと富士重工業・現スバル!)でもない。勤めた会社をやめた後に小説家となるわけでもない。にもかかわらず読むひとは"自分の物語が書かれている"と思ってしまう。それが、この漫画のすごいところだ。
どの会社(職場)に入ったか、どの肩書(職種)に就いたかはこの際問題じゃない。「働くひと」がいま居る場所で「どんな風に自分の仕事に出会っていくのか」。そのプロセスにこそ本質があるんだという、作者たちの信念が伝わってくる。
本稿筆者にも会社員生活があった。仕事でたくさんミスをした。ひとに威張れるものではないが、自分にとっては大事な成長の一コマだ。
「神部万次」も、小さなミスで大きく成長していく。とくに心に残るのは、たとえば第5話のこんな場面だ。
入社3年目。所属先工場の会計室在籍時のことだ。各部署からの項目別予算書を取りまとめて本社に提出した総合予算書が突っ返されてきた。原因は一担当者として関わった「神部」による単純な計算ミスだった。とはいえ上長としても判を押した責任がある。簡単な注意だけに留まった。大して怒られもせずに済んでやれやれ、と「神部」が胸を撫で降ろしたその時。「自分のミスを恥ずかしいと思う気持ちはないのか?」と追い打ちをかけ、「わからない人間に言ってもしょうがない」と言い捨てる1人の先輩社員がいた。「神部」には彼の言葉の意味がわからない。
時を経て「神部」は本社調査部へ異動。新しい業務展開についての提案レポートをまとめることに。はじめて自分の名前を付すレポートを夢中になって仕上げて提出した。レポート自体は上長に高く評価されるも、レポートの中にあった細かな数字のミスを指摘されて「これまで職場で経験したことのない痛みと恥を覚え」る。このとき、以前先輩に言われた一言を思い出し、おもむろに古巣の工場へ電話をかけ、彼に感謝を伝える。グッとくるシーンだ。
――おお神部君か。本社にはもう慣れたか? どうした?
――浅井さん……いつだったか……叱っていただいてありがとうございました。いまようやくわかりました。
――(黙笑)おめでとう
君は自分の仕事に出会ったんだな
こんなシーンに出くわすと、日ごろ胸に仕舞い込んでいた記憶が揺さぶられるなあ。気恥ずかしくも、誇らしい体験。数年経って響く先輩の忠告はやっぱり忘れられない。数年でも会社に勤めれば、誰しも似たような経験をするんじゃないだろうか。
「神部万次」が得た体験は、就活や転職時の経歴・職歴などには書くわけにもいかず、胸の内にそっと仕舞い置くほかなかった読者ひとりひとりの体験だ。気づけば主人公に成り代わって正面から「働くということ」の意味を考えはじめるに違いない。
正直に言います。直球ズドーンの本書タイトルが、じつは苦手でした。漫画じゃなければ素通りしたと思う。「働くということ」についての説教ほど退屈なものはないと、どこかで思い込んでいたから。
しかし、本書を読み終えた今となっては、そんな勝手な思い込みは改めなければいけなくなった。「働く」ということについての打ち明け話は伝えかた次第で、斯くもひとの心を揺さぶるものになるのだ。
就活中の学生にとっても、新入社員にとっても、現役の中堅社員にとっても、それぞれに大きなヒントを与えてくれることだろう。
全10話を読み終えてハタと気づいた。本書に描かれる社会人生活15年を、自分はもうとっくに過ぎてしまった。すでに“センパイ”となった今(“ネンパイ”とまでは言えないなぁ)、こんどは自分が「神部万次」のような若いひとたちに話してあげる番なのかもしれない。
わたしも“働くひと”たちに、機会あらば自分の気恥ずかしい体験を話してみよう――。本書のおかげで、これからの自分のしごとにも出会えたような気がする。
読後に春の風が吹いてくるような1冊だ。
レビュアー
出版社勤務ののち、現在フリー編集者。学生時代に古書店でアルバイトして以来、本屋めぐりがやめられない。夢は本屋のおやじさん。