「あのとき私は逃げました」と誰かが告白するとき、その顔はだいたいちょっと暗い。少なくともキリッとした調子でそれを言う人はフィクションでも現実でもあまり見かけない。要はそんなにクールなことじゃないのかもしれない。
でも、『ウサギランナウェイ』は、私が今まで見たことのない「逃げ」を見せてくれるんじゃないか。最高にスカッとした感じの、それこそ日本中をとりこにするような強烈な逃走を。
“巻尾宇咲(ウサギ)”は、いろんなものから逃げている。
広島のヤクザから、とんでもない額の借金から。ウサギを蹴り飛ばしながら「逃げるな」と言ったヤクザ者の父親はあっけなく死んでしまったし、母親だって逃げ損ねて悲しい死に方をした。死んでしまうくらいなら、カッコつけずにとっとと逃げればよかったのに。そういう現実のすべてから、ウサギは逃走本能むき出しで駆け出す。しかも彼女は天才的に足が速く、とてもいい“逃げ先”とも出合ったのだ。
この大きなページを読んで私はなんだか救われた。これは「逃げる奴」を肯定するマンガだ。むちゃくちゃ熱い。
ウサギが“その男”と出会ったったのは、まさにウサギがヤクザから逃げているときだった。
男は、なぜかヤクザをみんなボコボコにして単車で追いかけてきたのだ。ウサギとヤクザの追いかけっこに急きょ乱入した形だ。ストライド、母指球、そして襷……男の口からは、なんだかランナーが好きそうなワードがバンバン出てくる。で、ウサギは抜群の走りを見せて逃げ続け、やがて男からこんな誘いを受ける。
狼塚は陸上トラック中距離走のコーチで、自分ならウサギを「本物」にして、現実から逃がしてやれるというのだ。狼塚のいう「本物」とは、逃げて勝てる一流のアスリートのことらしい。まだ本能と高い身体能力のみで逃げるウサギに、アスリートとしての理性を狼塚は授けようとしている。
ここが本作の非常におもしろい点で、狼塚はウサギを助けるためのサポートを惜しまないのだが、そのほとんどが陸上競技の鍛錬につながっているのだ。天涯孤独になったウサギの衣食住すべての面倒を見て、ヤクザになるべく見つからないよう転校先を厳選する。
そのチョイスのすべてから、狼塚のアスリートとしての執念も匂ってくる。
陸上競技後にファミレスで大きなステーキを食べさせるのもウサギの体作りにつながっている。とにかく、ウサギを鍛え、“全中(全日本中学校陸上競技選手権大会)”に送り込み、ぶっちぎりの1位を取らせることに取りつかれているのだ。そう、取りつかれている。
狼塚はウサギを庇護し、彼女が逃げることを大いに肯定するのと同時に、その才能を絶対に逃がさないようにしている。その取りつかれっぷりが見事で、読むとヒリヒリしてくる。
狼塚の目論見通り、ウサギは圧倒的スピードで逃げまくる。
名前を変え、住む土地も変え、狼塚から「遅くとも半年でヤクザはお前を見つけるだろう」とタイムリミットをささやかれながら、逃走本能をむき出しに走り続ける。彼女がどんな顔をして走っているかは実際に読んで確かめてほしい。まさに「逃げている人の顔」なのだ。
誰にも追いつかれないように逃げるウサギと、そのウサギを追い立てながら逃がそうとする狼塚。陸上競技のトラックと、ヤクザの世界、その両方で2人の逃走劇が繰り広げられる。
堅いローファーを履いて全速力で駆け出したウサギは、運よく陸上の世界に逃げ込み、今はなんとか身を潜めている。そのまま逃げ切れるだろうか。思わず「捲れ!」と叫びたくなるようなマンガだ。スピード競技を観戦しているときの、あの焦るような気持ちと疾走感が紙の上で存分に味わえて、とてもいい。
レビュアー
花森リド
ライター・コラムニスト。主にゲーム、マンガ、書籍、映画、ガジェットに関する記事をよく書く。講談社「今日のおすすめ」、日経BP「日経トレンディネット」「日経クロステック(xTECH)」などで執筆。
X(旧twitter):@LidoHanamori