一度折れて立ち直った心は強くなり、もう折れることはない



主人公の秋山恒星(あきやまこうせい)は、小学生時代、何をやらせてもすぐに上達し、自分より年上のプレイヤーを軽々と破っていく。周囲から「神童」と呼ばれる、自他ともに認める天才児だった。
しかし、野球には大谷翔平がいる。サッカーには久保建英、テニスには錦織圭がいる。
今から自分がどれだけ活躍しても、どうあがいても存在価値が薄れてしまう。
「10代で伝説を残したい」と考えていた承認欲求の固まり・恒星は、藤井聡太八冠のニュースを見てひらめく。
囲碁を始めて、俺が囲碁界の藤井聡太になる!
そんな大言壮語を吐いて通い始めた囲碁教室で、恒星は思い知らされる。
その教室にいた自分と同年代の少年少女5人、中には自分より年下もいたのに、そのうちの誰ひとりにも勝てなかったのだ。
3ヵ月、1日10時間必死で勉強したうえで圧倒的なハンデをもらっても歯が立たない。
なにより「努力しても勝てない」という経験自体が初めてだった恒星。
「足りないのは知識や経験ではなく、才能だった」
己を天才だと信じていた少年のプライドは、ズタズタに叩きのめされた。
以降、ほかのスポーツや勉強なども上手くいかなくなって自信をなくし、3年2ヵ月。
恒星はいつの間にか「何者でもない高校生」になっていた。
そんな彼が、たまたま参加した町内のイベントでふたたび、碁石を握ることになる。
相手は元「院生」(プロ棋士を目指す人たち)であり、今もプロへの道を諦めずに外来合格を目指して腕を磨いている青年・白山小金(しらやまこがね)。
この3年2ヵ月ぶりの囲碁の勝負で、恒星はプロへの入り口に立たんとしていた相手に、軽く勝利してしまう。
「元院生? プロ棋士? だってお前 あの5人より 全然弱かったぞ‥‥‥‥ッ!?」
次の瞬間、小金のスマホに流れてきたニュースを、驚きの表情で見る恒星。
3年2ヵ月前、圧倒的強さで自分をボロボロに負けさせ続けた少年・榎本翠(えのもとみどり)。彼が囲碁界の七大タイトルのひとつ、十段位の最年少挑戦者になっていたのだ。
頭の中が真っ白になり、意味も分からず怒りを覚えた恒星は、その足で因縁の囲碁教室に向かってダッシュする。
この物語は「野球で例えるなら、大谷翔平が5人いる」と言える「奇跡の囲碁教室」の門をそれと知らずに叩き、一度は心をボキボキに折られた少年が、ふたたび囲碁と向き合い「あのときの5人」の打倒を目指す「才能と挫折の囲碁漫画」である。
「何者か」であり続けるために、少年は戦う



しかし、大抵の子どもはさまざまな経験を積むにつれて身の程を知り、少しずつ「何者でもない自分」を受け入れて生きていく道を選ぶ。子どものころから夢だった道でプロとして成功できる人間など、当然のようにほんの一握りだ。
しかも、その「誰よりも成功したプロたち」の集まりである日本代表・侍ジャパンの選手たちですら、同じ代表でチームメイトとして戦った大谷翔平のバッティング練習に「脳を焼かれて」、次のシーズンは揃って調子を落としていた記憶がある。
日本のトップクラスのスラッガーのひとりである山川穂高(元西武・現SB)が、WBC強化試合の大谷の2本の本塁打を見て「マジで野球辞めたいです。同じ競技やってるとは思えない」とコメントしていたことを思い出す。
そんな「大谷翔平」が5人もいる囲碁教室とか、本気でその道を目指すつもりだった他の少年たちにとっては、まさに悪夢であろうことは容易に想像がつく。少なくともすぐプレイヤーとしての自分に見切りをつけ、観客として応援する方に回りたくなるだろう。
しかし「相手が大谷翔平だった」と後から知った本作の主人公・恒星は、一度は折れた心をふたたび奮い立たせ、改めて彼らの後を必死で追い続けるという苦難の道を選んだ。
失われていた「無敵感」を取り戻し、「何者か」であり続けるために。
この少年、ふたたび修羅の道に戻るという決断をしたこともすごいが、実はそれ以前に最初の挫折である「囲碁教室での3ヵ月間」の経験がすでにスゴかった。
「動画で1ヵ月勉強して、アプリもやった」程度で、大口を叩いて参加した囲碁教室で叩きのめされた。それだけなら、単なる「身の程知らずのイキッた少年」でしかない。
しかし、彼はその後の3ヵ月間で「5人の大谷翔平」を相手に、1勝もできずに1000敗を喫していた。1日10時間の囲碁の勉強をし続け、逃げ場をなくしながらボロボロに負け続ける。そんな絶望的な毎日を過ごしながら1000敗するまで心が折れていなかった時点で、十分に化け物になれる逸材だろう。
この事実は、彼が3年2ヵ月のブランクを経て囲碁教室に戻ってきたときに、囲碁教室の先生である岡野環(おかのたまき)により初めて明かされている。はじめはあまり表出していなかった主人公のスゴさや囲碁に対する執着が、徐々に明かされていく。この構成の巧みさも、本作の魅力のひとつと言える。




その裏ではおそらく「5人の大谷翔平」の中のトップであろう榎本翠の、タイトル戦(十段位)に向けての記者会見が行われていた。
タイトルにある「伍」という漢字には、漢数字の「五」の代わりに使われるほか、「比肩する・肩を並べる」という意味もあるらしい。
プロ棋士を目指すには高校生スタートは決して早くないうえ、打倒すべき宿敵はすでに遥か高みに達している。長い闘いになりそうだが、最後の最後まで、読者として決して退屈はしないだろうことは想像がつく。