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主人公は超人である。なぜ本作だけが、それが可能なんだろう?

海皇紀
(著:川原正敏)
2015.10.21
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帆船は、風の力で動く。
風の力を「空気の力」「地球の力」と言い換えてもいい。

悲しいことに、我々は「乗り物」というと燃料を使ってエンジンを動かすものを想像してしまう。自分もふくめ、たいがいの人はそれしか見たことがない。
だが、帆船は違う。帆船はいかなる燃料もエンジンも載せてはいないのだ。

にもかかわらず、帆船は驚くほど速い。たとえば20世紀初頭、中国を出てアフリカの喜望峰をまわりヨーロッパに至る貿易船は数多く運行していたが、速いものはこれだけ長い航路を100日かからずに航行したという。なんの動力も持たずに地球を半周以上である。驚くべき速さだと言えるだろう。

日本の開国に黒船が果たした役割は大きいが、じつのところ黒船は機帆船だった。蒸気機関によるエンジンと、風を動力とする帆と、両方を備えた船だったのだ。
なぜ両方備えていたかといえば、当時はまだ燃料(石炭)の補給地はほとんどなく、帆なくして太平洋横断は不可能だったからである。つまり、ペリー提督は示威のためだけに蒸気機関を応用したのだ。日本人は黒船が煙をもうもうとあげるその姿に驚いて科学力・軍事力の圧倒的な差を感じ、開国に至ったのだが、こけおどしにだまされた側面があったことは否めない。

さて、本作『海皇紀』である。
主人公のファン・ガンマ・ビゼンは、超人である。ほかに類を見ないほどのすごい力の持ち主だ。

少年マンガの主人公は、常人にないような能力を備えているものだ。ただし、そこには一抹のリアリティが絶対に必要だ。かならず弱点がある。それがセオリーだと言ってもいい。

ところが、『海皇紀』の主人公は超人なのである。しかも、超人なのに嫌味がないし、たいがいの不可能は可能にしてしまう。すげえやつだ。
どうしてこんなにすげえやつが描けるんだろう。連載時から考えていた。

この人の性格(キャラクターの描き方)ももちろんある。でも、もっとも大きいのは、彼が帆船の船長だということではないだろうか。

『海皇紀』には、ドラマのあちこちに帆船どうしの戦いやレースなどが描かれている。帆船のレースは、コミックス数巻を費やす大長編だ。当然のこと作品のあちこちに、帆船を知る者だけが知るような、通だけが理解している知識が披露されている。

陸上競技なら、ゴールに近い者が勝っている。ところが、帆船のレースはそうではない。ゴールに近いのはこっちだが、あっちが風上だから勝ってるのはあっち、というようなことが、往々にして起こるのだ。

むろん、そういう帆船だけに当てはまるような特殊事情は、作品内でわかりやすく説明されている。しかし、本稿を見ても明らかなとおり、そんなこと知る者はすくない。なにしろたいがいの人は帆船なんか乗ったことないし見たこともないんだから。どんなにわかりやすく説明しても、誰にも理解しやすいことにはならないのである。

わかりづらいから描かない、という選択肢もあったはずだ。しかし、これを表現しないわけにはいかなかった。これは帆船であり、風の力で動いているのだ、ということをどうしても知って欲しかった。

帆船における船長の役割は大きい。強い風が吹いてきて強気になり、帆を張りすぎればマストが折れるなどの大きな事故につながるし、場合によっては転覆する。かといって安全だけを考えて帆を出さなければ、速力が出ない。船長の経験と知識、船体の能力とクルーの能力、すべてを把握していなければ正しい号令は下せないだろう。

それは一種の超能力なのだ。今吹いている風はどのくらいで、そこに出すべき帆はどのくらいで、夜半すぎには嵐が来るし、それを避けるには船はこちらに運行しなければならない――そんなことを知ることができるのは。

本作の主人公は、その延長線上にいる。海を、風を読むように、人も、世界も読む。

地球上に海よりでかいものは存在しない。
それを自在に読むことができる人物は、もっとも優れた人物でなくてはならない。
だからファン・ガンマ・ビゼンは超人なのだ。

考えなきゃそれが出てこないのは、たぶん文明に毒されているせいだろう。
超人とはどういうものか。本作はそれを描いた作品でもある。

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レビュアー

草野真一

早稲田大学卒。書籍編集者として100冊以上の本を企画・編集(うち半分を執筆)。日本に本格的なIT教育を普及させるため、国内ではじめての小中学生向けプログラミング学習機関「TENTO」を設立。TENTO名義で『12歳からはじめるHTML5とCSS3』(ラトルズ)を、個人名義で講談社ブルーバックス『メールはなぜ届くのか』『SNSって面白いの?』を出版。「IT知識は万人が持つべき基礎素養」が持論。2013年より身体障害者になった。

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