そいつは暗い目をしてこう言った。
「マンガは手塚治虫しか読まないことにしてるんですよ」
言いたいことはよくわかった。わかったがゆえに思った。
くそったれ。
今でも同じことを思うだろう。
手塚治虫は、他に類を見ないほどのイノベイターである。文字どおり後世の人間が束になってかかっても成し遂げられないような大発明をいくつも成し遂げている。
そして、なにより重要なのは、彼はその偉業を圧倒的な大衆的人気の中で獲得していることだ。こんな例を、私は他にひとつしか知らない。ビートルズだ。
手塚治虫を知れば知るほど、彼のような作家は他にないことがわかってくる。「すべて」と言っていいほど多くのことを表現しているし、現在でも画期的といえることを平気でやっている。
まったく古くないから、「マンガは手塚だけ読んでいればいい」と考えるやつが出てきてもおかしくないのである。後世の表現は手塚のマネ、あるいはエピゴーネンに過ぎないのだから。それだけ接していればいいのだ。
もっとも、そういうこと言うやつ大っ嫌いだけどね。くそったれだよ。
本作は、『ブラック・ジャック』とともに、手塚治虫の低迷期といわれる70年代前半に連載がはじまり、「手塚の復活」を演出した作品である。
「低迷期」とひとくちに言うけど、あくまで大衆的人気を基準にしたからそう言うので、作品のレベルはまったく落ちていないのである。むしろ、売れなかったからこそさまざまな実験が行われ、結果としてすごい作品が量産された時期だ。
当時のエピソードとして有名なのが、手塚が『巨人の星』を示して、「これのどこが面白いのか教えてくれ!」と迫ったという話だ。私は『巨人の星』も大傑作だと思うし、いつかこのコーナーでも取り上げたいと思っているが、手塚にとっては当時『巨人の星』が得ていたような人気を得なければ成功とは言えなかったのだろう(なんて贅沢な悩みだ!)。
本作の連載開始は1974年。テーマは超常現象である。主人公が写楽保介、ヒロインが和登サンであることからもわかるように、少なくとも連載開始当時、作者はこれを「オカルト探偵譚」と位置づけていたことがわかる。それで主人公の名前をシャーロック・ホームズとワトソンからとっているのだ。
今読み返すと、超常現象そしてオカルトが大きな影響を与えていたことがわかる。
主人公の「第三の目」という特徴は、仏像などに見られる古代インド由来のものだし、ピラミッド、イースター島、飛鳥の遺跡群といったテーマ選定も、五島勉の『ノストラダムスの大予言』が大ベストセラーとなり、ユリ・ゲラーの超能力が大きな話題を集め、デニケンの「現代文明が栄える以前、別の人類が築いた進んだ文明があった」という論がまことしやかに語られていた時代背景と無縁ではない。本作はオカルト・ブームを機縁として生まれているのである。
そういや、石原元東京都知事が調査隊を率いてネス湖に行き、なんの得るものもなく帰国したのもこの時代だった。(現在、ネス湖はGoogleの水中カメラがリアルタイムで撮影を続けており、伝説の怪獣はいないことが証明されている)
ここでわかることがふたつある。
ひとつは、手塚ほどの才能であっても、時代状況と離れて作品を生み出すことはできないということ。超常現象がブームだった70年代でなければ、『三つ目がとおる』は生まれなかった。もしかりに今、同じ状況に置かれていたなら、手塚は別の作品を描いただろう。
もうひとつは、移り気なブームを機縁に生まれた作品であっても、作家は時代状況と関係なく名作を生み出すということ。『三つ目がとおる』は今読んでもムチャクチャおもしろいし、ヒロインの和登サンもすごくエロい。人間とは不思議なものであり、この世界は不思議なもので満ちている、というテーマもまったく古くない。
ネス湖に怪獣がいないことが明らかになっても、『三つ目がとおる』は決して古びないのである。
きっと今後何年経っても、『三つ目がとおる』はおもしろいし和登サンはエロいのだろう。すげえことだなあと思う。
そんなことをつらつらと考えながら、何度かあいつの暗い目を思い出した。
くそったれと思った。
たぶんそれも、この作品に接するたびに続くのだろう。まるで呪いのようだ、と考えるのは、オカルトに影響を受けたせいかな。
レビュアー
早稲田大学卒。書籍編集者として100冊以上の本を企画・編集(うち半分を執筆)。日本に本格的なIT教育を普及させるため、国内ではじめての小中学生向けプログラミング学習機関「TENTO」を設立。TENTO名義で『12歳からはじめるHTML5とCSS3』(ラトルズ)を、個人名義で講談社ブルーバックス『メールはなぜ届くのか』『SNSって面白いの?』を出版。「IT知識は万人が持つべき基礎素養」が持論。2013年より身体障害者になった。