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「純白」がひきよせるものに惹きつけられてはいけない。「不純」な生の中にこそ倫理がある

太宰と井伏 ふたつの戦後
(著:加藤典洋)
2015.02.27
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「みんな、いやしい欲張りばかりです。井伏さんは悪人です」と記された太宰治の遺書の謎解きからこの本は始まります。強い畏敬の念、尊敬をしていた井伏鱒二をなぜ悪人と最後に言い残したのか。そもそも、幾度かの自殺未遂と最後の心中は太宰にとって同じものなのだろうか、という考えてみれば当然の疑問を加藤さんは丁寧に考察しています。幾度も繰り返したのだから最後のもの同じでは、と思いがちですが、これは自分の思考の怠惰と相手への考察(思い遣り)に欠けたものなのかもしれません。

少し考えてみれば当たり前ですが、鬱屈した青年期、不遇な時期の自殺と、文学者として一家を成した太宰の心中とを同一できるはずがありません。学生時代の吉本隆明や三島由紀夫たちが訪ねてくるほどに太宰は注目されていたのです(絶頂期といってもいいかもしれません)。太宰治=人間失格=自殺癖のような安易な思考をしてはいけないのではないでしょうか。

加藤さんは戦後に太宰が直面したものをこう指摘しています。
「戦後の太宰に自罰的衝動を強いたものは、何ら太宰の口からは語られていないけれども、戦争で死んだ「未帰還の友」への同情と文学者としての責任感と生き残ったものの「後ろめたさ」だったと考える」

これはそのまま戦後の三島由紀夫の原風景に通じるものではないでしょうか。
彼が死に、自分が生き残ったのはなぜか。そこには個人の意思を越えた、偶然というものとも違う何かがあったのです。この本には触れられていませんが島尾敏雄の『出発は遂に訪れず』などからも、そのような生き残ることの怖ろしさなどを感じさせます。

戦死は政治によって強いられた死であることに間違いはありません。と同時に生かされたのも強いられた生だと感じ取った人がいることも確かです、とりわけ誠実な人間(=文学者)であろうとしたものにはそれは重いものとして心に残ったのかもしれません。

「戦後に生き延びなかった者への思いが強まってくるに従い、彼の作品には、「純白」の心と「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ。」という二つのあり方の分岐、分裂の様相がしだいに露わになる」
この強いられた生が太宰にもたらせた分裂こそが「家庭の幸福は諸悪のもと」と太宰につぶやかせたものだったのです。もちろん太宰の言う(三島の同じだと思いますが)「純白」だけがが倫理的な生き方ではないと思います。この「純白」に惹かれる感性が私たちにあったとしても……。

「新しく敗戦が彼にもたらした戦争の死者への同情と後ろめたさが、そしてまた、それと拮抗するように再び呼び出される忘れたい、そして忘れがたい人間の記憶が、ここで彼を死に突き動かしている最大の要因なのである」
けれど加藤さんと同様にこのようなことも考えてしまいます……「『人間失格』を書いた後、もし彼の心中がまたもや未遂に終わっていたとしたら、彼が戦争の死者の呪縛から解き放たれて、また別の作家へと生まれ変わっただろう」と……。

どのような作家になったのでしょうか。
「戦争はいやだ。勝敗はどちらでもいい。早く済みさえすればいい。いわゆる正義の戦争よりも不正義の平和の方がいい」
と書いた井伏鱒二の姿がここで浮かび上がってきます。
「純白」がひきよせた自死に立ち止まってはいけない、むしろ「不正義」(「不純」)
な生の中にこそ倫理・モラルを求めるべきではないか、それはたやすいことではないかもしれません。またさまざまな欺瞞を引き寄せることもあるかもしれません。でも「生」の風から目を背けてはならないと思います。(「風立ちぬ、いざ生きめやも」です)そんなことを考えさせる一冊でした。
(ところで「生きめやも」は誤訳として知られていて、このままだと「生きようかな、いやムリかもしれない」という意味になってしまいますがポール・ヴァレリーの原文では「死のう」というニュアンスはなく「生きよう」ということだということです)

レビュアー

野中幸宏

編集者とデザイナーによる覆面書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。

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