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講談社社員 人生の1冊【33】村上春樹が綴るヨーロッパでの日々『遠い太鼓』
松村祐二 クーリエ・ジャポン 30代 男
海辺へつれていきたい
「遠い太鼓に誘われて
私は長い旅に出た
古い外套に身を包み
すべてを後に残して
(トルコの古い唄)」
ぼくが『遠い太鼓』を手にしたのは、10年前の真夏の夜でした。
その晩、ぼくは友人につれられて、海に近い千葉の小学校で開かれた盆踊りを見にきていました。校庭の真ん中に質素な櫓(やぐら)が組まれ、そろいの浴衣を着た人々が和太鼓の音に合わせて、ぐるりぐるりと輪を描いて踊っていました。どん、どん、かっ、というリズムが、ざあん、ざあん、という波の満ち引きと混ざりながら、夜空に響いていたことをよく覚えています。盆踊りの輪を取り囲むように、手作りの屋台が6台ほど出ていました。そのひとつ、近所の家々から古くなった本を寄せ集めて売っていた屋台に、この本はひっそりと置かれていました。ぼくはその当時、長い旅行をすぐあとに控えていて、できるだけ持ちはこびやすいサイズで、できるだけ長く読めそうな本を探していました。だからこの、約570ページの文庫本へとすぐに目が留まったのです。
『遠い太鼓』は旅行記です。著者の村上春樹さんが『ノルウェイの森』や『ダンス・ダンス・ダンス』を執筆していたころ、“常駐的旅行者”としてヨーロッパを転々とした日々について綴っています。そこには、ローマやアテネ、クレタやミコノスといった街の名前がつぎつぎと登場します。土地の人々との会話や、買い物や食事といった日常生活を通じて、その街のスケッチが色鮮やかに描かれます。その街の朝日がどんな色をしていたのか、その空気がどれくらい新鮮だったのか、そういったものが伝わってくるような本です。
これは幸運な偶然でしたが、ぼくの旅行計画はギリシアのアテネからフランスのパリまでを1ヵ月かけて移動する、というものでした。クレタ島やミコノス島、ローマやフィレンツェなどにも足を運びました。ぼくは行く先々のホテルのベッドで、街角のカフェで、人気のないビーチで、『遠い太鼓』のページを開きました。なにも、ガイドブックのように読んでいたわけではありません。アテネにいたときにロンドンの文章を読んだり、ローマでフィレンツェの話を読んだり、もちろんミコノス島でミコノスについて読んだりもしました。ぼくにとってみれば、それは日本語が話せる旅の友人でした。
以来、ぼくは長い旅行をするとき、この本を鞄にいれることにしています。マルタやサントリーニといった地中海の街から、コペンハーゲンやヘルシンキなどの北海周辺の都市、台湾やハワイ島といった太平洋の島にも、この本を持っていきました。旅の必需品というわけではありませんが、遠い街にいくとき、とくにそれが海辺の街だったりするとき、ぼくはこの本を一緒につれていきたくなります。遠くはなれた場所から打ち寄せては返す波のように、長い移動のなかのリズムを整えてくれる。そんな旅の伴侶といえるかもしれません。
- 電子あり
ある朝目が覚めて、ふと耳を澄ませると、何処か遠くから太鼓の音が聞こえてきたのだ。ずっと遠くの場所から、ずっと遠くの時間から、その太鼓の音は響いてきた。──その音にさそわれて僕はギリシャ、イタリアへ長い旅に出る。1986年秋から1989年秋まで3年間をつづる新しいかたちの旅行記。
執筆した社員
松村祐二【クーリエ・ジャポン 30代 男】
※所属部署・年代は執筆当時のものです
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