行き先のみえない水が海に向かうまで
この原稿の締め切りはまだあと少し先で、だからそんなに慌てる必要はないのだけど、『水は海に向かって流れる』の最終刊(この作品は全3巻だ)の“おわり”の文字を見て、いてもたってもいられなくなった。
思えば、1巻の最後でも2巻の最後でも「ウワー!」となったのだ。どうするの? これどこに向かっちゃうの?って。各話を読み終わるたびに部屋をぐるぐる歩き回った。
そうやってアワアワしながら、このマンガの題名をおまじないのように唱えた。『水は海に向かって流れる』、と。そう、「水」たちはいつか海に向かうはずなのだと固唾(かたず)を呑んで見守ってきた。どんな海なのかはわからないけれど、ここじゃないところに行ってほしい。
「怒ってもどうしょもないことばっかり」がひたひたと湧いて溺れそうになる。
なんて長いんだろうと途方に暮れたり、あっけなく時間が進んで慌てたり、時間が伸び縮みするとても不思議なマンガだ。なので1巻から3巻までまるごとを紹介できるのがとてもうれしい。ここまでたどり着いてよかった。
「彼氏とかいるんですか?」「いらない」
“直達(なおたつ)”は高校進学のタイミングで実家を出て“おじさん”の家で暮らすことにした。
土砂降りの雨のなか、直達を迎えに来たのはおじさんではなく別の人だった(そうか、最初からこの物語は水でいっぱいだったのだ)。
“榊(さかき)”と名乗るこの女性は、なんとも読み取りにくい表情をしている。直達をお邪魔虫だと思ってる? いや、そんな単純な感情なら、きっとこんな顔はしていない。
榊さんはおじさんの恋人ではなくただの同居人なのだという。おじさんの家にはあと数人ルームメイトがいる。直達はその一員になったというわけだ。
全編通して日常がこつこつと流れていく。でも日常のちょっとした会話をきっかけに空気の温度がサッと変わり、また常温に戻る。
なんで直達は幼いころおじいちゃんちに引き取られていたの? そして、どうして榊さんがその会話にそっと耳をそばだてるの? この二人の間には、「ある因縁」がある。
「何があったか」、その全貌を知っている人間は限られている。というか全貌を知る人など誰もいないのだ。直達のおじさんはそんな事情があるとは知らないし(だから直達を下宿に呼んだ)、直達の両親も息子の下宿先に榊さんがいることを知らない。そして因縁を作った当事者たちだっておそらく全貌を知らない。
家族でも友人でも、何年経っても知らないことはいっぱいある。
榊さんはいじわるをして直達を追い出したいわけじゃない。「子供には関係ないじゃない」と榊さんは繰り返す。そりゃそうかもしれないが、榊さんの人生には、過去の事件が、なんともしがたい存在感のまま居座っている。
このぎこちない直達の顔がたまらない。彼もほどなくして榊さんと自分との間に横たわる因縁の存在を知ってしまうのだ。同じ屋根の下に暮らしてるし……。
そして世間話のつもりで直達が何気なく放った「彼氏とかいるんですか?」という問いに対し、榊さんはなんと答えるか。
「いる」でも「ないしょ」でもなく「いらない」。強烈だ。とっさに謝ってしまう直達の返事が切ない。
やることなすこと全部不正解な気がする
直達はまだ高校1年生で、まわりはみんな大人。そして大人同士が起こした事件を、大人である榊さんは自分の胸の中だけで処理しようとしている。でも、直達はそんな榊さんを放っておけない。
榊さんの抱える重たい荷物を、自分も半分持ちたい。でもどうやって?
とうの昔に終わってしまった事件だから解決なんて存在しないし、みんな「怒ってもどうしょもないことばっかり」をやりすごして日々を回していく。直達がどう動いたって空回りのように思える。でもそうなのだろうか?
直達はまだ子供で、榊さんは26歳の大人。そして榊さんの時間はずっと止まったまま。榊さんは波風を立てないように生きてきたけれど、彼女が注意深く抑えつける胸のざわつきは、一部は直達のものとなる。
直達と榊さんを見守る同居人の“教授”やおじさんの空気が心地良い。自分だけの痛みをそっとしておいてくれる。そして罪悪感がどんなものであるかがよくわかる。「あなたが気にすることじゃないよ」と言われて軽くなるような荷物だったら、最初から背負っていないのだ。
やることなすこと全部不正解な大人たちに囲まれ、同じくやることなすこと全部不正解な直達は、やがてひとつの答えに流れ着く。
ここでも雨が降っていたのか。長くて短い「家族」と「感情」の物語に呑まれるうちに、とんでもない景色が待っていた。よくぞここまでたどり着いたね、と思える3冊だ。
主演 広瀬すず、監督 前田 哲(『そして、バトンは渡された』)で映画化決定!
6月9日よりTOHOシネマズ 日比谷ほか全国ロードショー
レビュアー
ライター・コラムニスト。主にゲーム、マンガ、書籍、映画、ガジェットに関する記事をよく書く。講談社「今日のおすすめ」、日経BP「日経トレンディネット」「日経クロステック(xTECH)」などで執筆。
twitter:@LidoHanamori