息を吸う。その息を楽器に吹き込む。そして音楽を奏でる。少年はそこに「風」を感じた。
山本誠志の連載デビュー作『宇宙の音楽』は、痛ましいほどに音楽を愛する少年・宇宙零(たかおきれい)の物語だ。著名なトランペッターの父を持ち、中学時代には吹奏楽部で父と同じトランペットを受け持っていた彼は、持病のぜん息のため部活動を断念。高校入学後は孤高を貫き、生意気なひねくれ者キャラを装っていた零は、先輩女子の星野水音(ほしのみお)に声をかけられる。その音楽的素養と、内なる情熱を見破られ、零は創部して間もない吹奏楽部の「指揮者」として誘われる。指揮台という思いもよらない場所から、再び吹奏楽と対峙することになった零。彼の前に、新たな世界が広がり始めた……。
物語の序盤からすでに、本作は魅力的なキャラクターの成長ドラマとして、美しいアーク(弧)を形作っている。中学生という多感な時期に夢を諦め、失意のなかにいた主人公が、再び自らの夢と向き合うことになる「再生」の物語。そして、指揮者という立場になって初めて、自分が追い求める理想の音楽とは何かが明確な輪郭を持って見えてくる「自己を知る」物語。その音楽は、決して演奏者たちへの押し付けによって生まれるのではないと気づき、最上のアンサンブルを引き出すための指揮者の役割を自覚する「成長」の物語。
第3話では早くも小規模ながら手痛い「失敗」が描かれ、自分なりのやり方で克服の第一歩を踏み出すまでの通過儀礼が、濃密かつ爽やかに描かれる。ここから零を中心としたバンドメンバーの物語がどのように劇的な弧を描いていくのか、非常に期待させる導入部だ。
漫画には音楽を題材にした名作が数多いが、容易に取り扱うことができないモチーフでもある。専門知識や素養が求められる部分も大きいが、何より映像やレコードと違って、漫画には音がない。実際に聴かせられない音を読者に感じてもらうには、それなりに表現力が必要だ。それさえあれば、読者の想像力を増幅させて、実際に聴こえるどんな音楽よりも素晴らしい音を脳内で響かせることも可能である。しかし、単に技術が秀でるだけでは難しく、やはり描き手の感性、パッションに因るところも大きい。
『宇宙の音楽』はその点を、この作者にしか表現しえない力強さでクリアしている。画力は完璧、とは言えないところもあるが、何が描きたいのか、どんな音や空気を感じてほしいのかは情熱的な筆致から溢れんばかりに伝わってくる。主人公と同じように音楽が心底好きでなければこういう絵は描けない、こんな場面は作れない、というページが次々に登場する。
演奏シーンだけにとどまらない。画面の至るところに作者の初期衝動が横溢(おういつ)していて、それがまさに「心を動かさずにおかないもの=音楽」を描いた物語とシンクロしている。これは作品にとって大変なアドバンテージだ。また、物語は神戸を舞台にしており、関西言葉の活き活きとしたセリフも作品に生命力を与えている。ある意味「音で読ませる漫画」と言っていい。
そもそも漫画の表現領域を越えたもの=音楽を敢えて描くという挑戦から出発している作品だけあって、漫画だからこそできること――絵で物語ることへのこだわりを感じさせる部分も随所にある。特に印象深いのは、登場人物の目のアップと、風を描いたシーンだ。前者は言葉にならないエモーションを伝える際に、それを読者が積極的に汲むことを促すカットとして、印象的に散りばめられている。そして後者の「風」は、やはり音楽と同じように形がなく、漫画では伝えづらいものだが、だからこそ作者はそれを本作の重要なエレメントとして選んだのではないか。
「息吹の奏でる音が混ざり合い、それが風になるような音楽」という形のない理想を追い求める主人公のドラマと、それを漫画で表現しようという作者のチャレンジは、やはり絶妙にシンクロしているように見える。
そして、漫画が映像作品よりも大きく有利なのは、フレーム(コマの大きさや形状)を自由に操れる点にもある。この作品でも、漫画ならではの巧みなフレーム操作で、パッショネイトな起伏に富んだ場面演出が随所になされている。もしこの漫画を映像化したいと思う人がいたら、そういう映像のディスアドバンテージも意識して取り組んでもらいたい……と、思わず先々のことまで余計な心配をしてしまうほど、映像的喚起力が図抜けた作品でもある(特に、下図の第1話における見開きページの構成・カッティングセンスは忘れがたい)。連載デビュー作の単行本1巻の時点でそこまで思わせるのは、単純にすごい。
ケイト・ブランシェットが世界的に著名な大物指揮者を演じた映画『TAR/ター』(2022年)でも描かれているように、指揮者には孤独や屈折がつきもの。それでいて絶対的な信頼と指導力、ある種のカリスマがないと成り立たない役職でもある。自分だけの狭い世界を飛び出し、他者とのかかわりと世界の広がりを身をもって知っていくであろう高校生・零の物語は、決してこの先も平坦ではないはずだ。だからこそ、その痛みも葛藤も含めて見守りたい、そんな気持ちにさせる鮮烈な第1幕である。
レビュアー
ライター、ときどき編集。1980年東京都生まれ。雑誌や書籍のほか、映画のパンフレット、映像ソフトのブックレットなどにも多数参加。電車とバスが好き