静かにふくらむ秘密たち
きれいな余白がたくさんあるのに息がときどき苦しくなるマンガだ。澄みきった空気をめいっぱい吸い込んだあと、どうやって吐き出せばいいのか迷う。「行き場がない」が一番近い感情かもしれない。
『全部失っても、君だけは』には秘密がたくさんある。その秘密たちが読んでるこちらの息を奪う。
どうしてもアイドルになりたかった女の子。彼女はなんでアイドルになりたかったの?
アイドルとしてノースキャンダルを貫いてきた28歳の胸の内は?
大切な“推し”とインスタのDMで繋がってしまった男は次にどうする?
そして、アイドルは恋人と抱き合いながら毎日何を祈っている?
ひとつひとつの秘密は小さな気泡のようだ。でも、いつかふくらんで壊れてしまうかもなあと覚悟している。それはもう少し先のような気がするし、もう少し待ってほしいし、もしそうなったとしても、きっときれいな景色なんだろうなと思う。
もし私がアイドルだったら、彼女にしてくれる?
主人公の“もこ”は大学2年生で、アイドル活動もしています。
小さなライブハウスでコツコツとライブをして、ときどき地方都市へ遠征に行って……という日々。衣装がメンバーの名前やキャラクターと対応していて大変かわいいので見てほしい。
メンバーみんなでお揃いのパジャマを着て、遠征ライブのあと宿泊先でおしゃべり。こういう他愛もないコマがとても良い。でも“もこ”には秘密がある。
もこには“彼氏”がいること。他のメンバーには彼氏がいる気配はない……。お約束として「恋愛禁止」を掲げるアイドルは多いから、そりゃ後ろめたいだろうに……いや、“もこ”の場合は状況が少し特殊なのだ。
まず「彼女」ありきで、「アイドル」はそのための手段だったんです。“もこ”は高校時代に予備校の先生“雄太”に強烈な片思いをしてしまい、連絡先も教えてくれない雄太(まあ先生ですからね)がアイドルを好きらしいと小耳にはさんで、雄太のためにアイドルになろうと決めて、見事実行してしまったわけです。
好きな人に好かれるための圧倒的行動力。「絶対幸せにするから」の言葉が強い。いっぱいがんばったんだろうなあ……雄太も心を動かされて“もこ”と付き合うことに。
甘々!
だから、彼女には「アイドルなのに彼氏がいる」といったわかりやすい罪悪感はなくて、「彼氏が一番大事。でもアイドルも大事……」と心の底から思っているわけです。ジレンマはジレンマとしてあるけれど、強烈な苦悩はない。この淡くフラットな風景が本作の魅力で、私が何度も感じた「余白」の多くは、ここからきていると思います。
絶対的存在の“推し”
そして、“もこ”とは対照的なアイドルも描かれます。雄太のかつての推し“MIYU”です。
ハイボールを飲みながら彼女が思い出す「今まで」は淡々としているけど読む人の心に刺さる。
あえて恋愛を排除してアイドルに徹してきたMIYU。周りは結婚して、子供が生まれて、自分は……? 私は年齢的にMIYUの不安や焦りがすごくわかるので彼女の味方になりがちなんですが、雄太とMIYUが出会ってしまうことにより、“もこ”の世界は一気に危うくなります。
雄太~~~なんだその顔は~~~!
でも“推し”はずっと“推し”なんです。彼女ができて、ライブに行きづらくなっちゃったとしても、あの焦がれるような気持ちは不変。
MIYUのこの笑顔にちょっと泣けてくる。アイドルって沢山のものをこちらに捧げてくれる存在で、ひたすら可憐で尊い人なんです。本作のMIYUのライブシーンは怖いくらい可愛くて何かが爆発しています。これは推してしまう。
そして“もこ”の魅力がどこで爆発しているかというと、それは雄太の前なんです。
"もこ"の強い愛情と、MIYUのアイドルとしての矜持と不安、そして雄太のとまどい。いろんな核心をそっとなぞりながら日常が続きます。
“もこ”はアイドルとしての自分だって大事にしているし、“もこ”から元気をもらっているファンだってきっといるはず。そういう「余白」すら目に浮かんでこちらの息を止めてきます。悲しいわけではないのに胸騒ぎがとまらない作品です。
レビュアー
元ゲームプランナーのライター。旅行とランジェリーとaiboを最優先に生活しています。