「第一次世界大戦は科学の戦いだった。第二次は物理学、第三次は数学と言われているが、私はそうは思わない。君達の戦いだ」
訓練教官と思われる人物が訓練生に訓示を述べているシーンでこの作品は始まる。私はここのシーンがどうしても心にひっかかる。「君達の」これが意味するものは何なのか?と。
宮下暁による「東独にいた」は2020年代を迎えたばかりの今だからこそ読むべき作品だ。冷戦が終結してからまもなく30年を迎えようとしている現代、もはや東西冷戦の時代は遠くなっているけれど、日々流れてくるニュースは、世界の緊張感が次第に高まってきていることを感じさせるものばかりの現在だから。
「君達の戦い」である第三次世界大戦の足音は確実に近づいてきているように思える。では、そんな時代に投げかけられる、わたしたちの「戦い」とは何なのだろうか。そう考えてみるとどうだろう、この物語は圧倒的な自分事として捉えられないだろうか。
この物語は、社会主義(体制側)の軍人であるアナと、資本主義(反体制側)の首謀者であるユキロウが時代に翻弄される物語である。
アナは東ドイツの軍人だ。彼女はユキロウへ恋心を抱いており、書店の店主で文学青年のように見える彼に軍人としての粗野な振る舞いを見せたくなく、高いヒールを履いてオフィスレディのように振る舞って、軍人という身分を隠してユキロウの店に通っている。
しかし彼女は東ドイツの科学によって身体改造された神軀兵器と呼ばれる存在で、超人的な身体能力で対象を制圧する虐殺マシーンだ。
一方ユキロウは、小さな本屋を営む日系人だが、書店店主の裏の顔は、反政府組織フライハイトのフレンダーと呼ばれる主導者である。
どうあっても、相容れない立場の2人の恋と闘争の物語が本作の核となっている。
2人の主人公が、お互いの立場やイデオロギー、正義の間で揺れ動く群像劇だから、どちらかの体制を「悪く」描いていないのだ。むしろ、2人の間の正義は通底している。
アナは、虐殺マシーンである自分の行動に疑問を持っている。でも、もう引き返せない以上、それを肯定するために国を愛そうと決め、その使命に殉じている。
国家や政治家が澱んでいたとしても、だからといってその国の全てが悪いわけじゃない、そうやって愛している彼女の正義は、尊くも悲しく思える。
同様にユキロウの正義も質素倹約なこの国を愛し、本当の平等をこの国にもたらそうとしている。本当は誰だって自分の国を愛していたかったはずだから。
しかし対立が生まれると、いろいろなものが引き裂かれていく。自分の立場によっては、自分の正義よりも立場を優先させなければならない。
立場上、対立する運命が見える2人であるが、お互いの思いは同じく、祖国を愛しているということ、そして愛すべき国民がいるということなのだ。
本作の舞台はベルリンの壁が崩壊した1989年から遡ること1985年の東ドイツ。東西冷戦の時代を知っている一定以上の年齢の読者ならば、かつてニュースなどでその情勢を目にしたことがあるかもしれない。
ここで描かれる東ドイツの模様は、共産主義国家でよく耳にするまるで監獄のような「徹底的な監視と統制」が敷かれた社会である。にもかかわらず、この作品から受ける印象は、ただのディストピアではなく不思議と社会に血が通った印象を感じるのだ。
作者の宮下暁氏は、1991年生まれで、ベルリンの壁が崩壊してしばらくしてからの平成世代である。幼いときにそういったニュースを見たことがあるということでもないだろう。だから、本作を描くに当たって1から勉強したという。(リンク⇒https://gendai.ismedia.jp/articles/-/69074?page=2)
こうした試みによって物語の世界に血が通っているからか、みるみるうちに間に物語の世界にのめり込んでしまう。緊張感のあるサスペンスから、躍動感あふれるカメラワークのアクションシーンにラブストーリーと、緊張と緩和のバランスがすばらしく、あっという間に読み切ってしまうだろう。
この作品におけるベルリンの壁がどうなるのか、そして2人の関係はどうなっていくのか。どうかこのイマの社会情勢の中で味わってほしい。
レビュアー
静岡育ち、東京在住のプランナー1980年生まれ。電子書籍関連サービスのプロデュースや、オンラインメディアのプランニングとマネタイズで生計を立てる。マンガ好きが昂じ壁一面の本棚を作るものの、日々増え続けるコミックスによる収納限界の訪れは間近に迫っている。