物語は「無力の自覚」からはじまる
炊事はできない。洗濯はできない。自動車の運転もできないし、LINEもやったことがない。高額医療費制度など、社会のシステムに関する知識もない。他人とうまく接することができないから、半ひきこもりだ。
自分には生活者としての能力が欠如している。大人なのに。アラサーなのに。
本作は、主人公がそれを自覚するところからはじまります。
すでにわかっていたことでした。しかし、直視しなくてもよかったのです。親が守っていていてくれたから、気づかないふりをしていてもよかった。
ところが、お母さんが倒れたことによって、事態は急変します。それまでぬくぬくと生きていた主人公が、「おまえは役に立たない人間なのだ」という、厳しい現実をつきつけられることになったのです。
お母さんの最後の教え
倒れたお母さんの病状は、作品中で逐一レポートされます。患者はどういう状態なのか。家族はどうふるまうべきか。何が必要なのか。そのとき医者はどう説明するか。とてもわかりやすく述べてあり、「へーそうなのか」と納得することがしばしばありました。
とはいえ、本作の主題はそこにはありません。
作者はこの作品を「エッセイである」と語り、母の病状と自分をふくめた家族の対応を綴っていきます。作者の真面目な人柄と誠実さが感じられ、とても好感が持てます。
しかし、多くの読者にとって、これはエッセイではありません。ドキュメンタリーです。しかも、ドキュメントされているのはお母さんではありません。作者自身です。彼が家族の病に接し、どう成長していくのか。それがこの作品の真のテーマになっています。
一例をあげましょう。
作品がはじまったとき、作者はほとんど料理ができませんでした。おかずも冷凍食品だったのです。ところが、物語が進むにつれ、彼は自分でおかずをつくり、家族に提供できるようになっていきます。これは表面上、作品のテーマになってはいませんから、大々的にフィーチャーされることはありません。しかし、ここに主人公の成長を感じた人は、少なくないでしょう。
やがて、主人公はとても立派な決断をすることになります。お母さんのことを考え、家族のことを考え、決断を下す。あの生活力のない、役立たずのキダニエルがみずから立つのです。ああ大人になったなあ、成長したなあ。読者の多くはきっと、そう感じることでしょう。
これがフィクションであったなら、主人公が成長するのは当然のことです。ストーリーを進行させるために事件が起き、登場人物は事件に接することで大きく成長する。それがフィクションです。よく、続編や「PART2もの」がうまくいかないと言われるのは、主人公が得た成長の扱いが格段に難しくなっていることが大きな要因です。
しかし、この作品はフィクションではありません。実際にあったできごとを、大きな誇張なく述べたノンフィクションです。通常、そういう作品で成長を描くことは、とても困難なことになっています。
ところが、主人公キダニエルは成長します。
これはいわば、お母さんの命を賭した最後の教えです。心を動かされない人はすくないでしょう。ここには、ヘタなフィクションよりずっとドラマチックで感動的なストーリーがあります。
漫画とドキュメンタリー
漫画はドキュメンタリーに向いている――。
以前、そう感じたことがあります。しかし、諸般の事情により、これまで漫画がドキュメンタリーに応用された例はすくなかった。漫画を取り巻く状況の変化が、それを変えつつあります。
2019年に亡くなられた漫画家・吾妻ひでお先生の晩年の傑作に『失踪日記』という作品があります。
吾妻先生はヒット作も持っている、とても評価の高い作家でした。しかし、彼はそれをすべて捨て、仕事の関係者はむろんのこと、家族とさえ連絡を絶ち、ホームレス生活に入っていきます。
『失踪日記』はその際(その後)に経験したさまざまなことを描いた作品でした。テーマの一部を列挙するだけでも、その凄絶さがわかります。
「寒空の下でのホームレス生活」「幻覚に悩まされ飲食が不可能なほど重度のアルコール中毒」「アル中更生施設への入所と入院患者たち」「鬱と不眠」「数度の自殺未遂」。
テーマをいくつか並べただけでも、笑えないこと・悲惨なことの連続になってしまう。それが『失踪日記』という作品です。
にもかかわらず、『失踪日記』は明るく、優しく、楽しく、時として笑える作品になっていました。描かれている内容はこれ以上ないほどヘビーなものでありながら、読者は決してその重さを背負うことはなかったのです。
これを可能にしたのは、なにより吾妻ひでおという作家の驚異的な表現力です。と同時に、漫画という表現形式が持つ力も大きなものがありました。
これをテキストで書いても、実写で表現しても、重たいものになってしまうだろう。『失踪日記』のあの魅力的な軽妙さは、失われてしまう。これは、漫画だからこそ成立している作品なのだ!
この作品も、『失踪日記』が持っていた軽みと、同じものを有しています。
作者みずから「連載打ち切りになった」と語る作品(『かみつき学園』)を見るとわかりますが、作者はもともと、この作品のような絵柄で描いていた人ではありません。
本作がこのような形式で表現された理由は、2巻(本作の下巻)で語られることになりますが、早い話が「手間のかからないもの」である必要があったため、この絵が選択されたのです。
だが、それがよかった。「ドキュメンタリーとしての漫画」の世界は、この形式だからこそ大きく広がりました。
さきに、この作品はとてもドラマチックで感動的な物語が描かれている、と語りましたが、これが『かみつき学園』の絵柄だったなら、鼻白むことなしに接するのは難しかったでしょう。
ディスコミュニケーションを描く
この作品には、病気のお母さんにかける言葉が見つからなかったり、お母さんにはたしかに「地雷ワード」があるが、それがどこに埋まっているかわからない、といぶかるシーンが描かれています。ものすごく乱暴にまとめると、病を負った者と健常者のディスコミュニケーションが描かれているのです。
自分は身体が悪いので、これ、よくわかります。あーこの人は適当な言葉が見つからないんだろうなーと感じることはよくあるし、こいつ気づかってるつもりなんだろうけど慇懃無礼でムチャ腹立つなと思うこともしばしばあります。とはいえ、一般化できることでもないので、正しい対応は人それぞれだというほかはありません。(そもそも、個体差を無視したコミュニケーションにロクなもんはありません)
本作には、そんなディスコミュニケーションも描かれています。これは、多くの人が経験するものでありながら、漫画ではあまり表現されてこなかった、たいへん貴重なものです。それを表現させたのがお母さんだとするなら、やはりお母さんはかけがえのないものを授けていったと言うべきでしょう。
この作品は、タイトルよりずっと多くのものを含んでいます。すこしでも興味を持ったなら、ぜひ目を通していただきたい作品です。
レビュアー
早稲田大学卒。元編集者。子ども向けプログラミングスクール「TENTO」前代表。著書に『メールはなぜ届くのか』『SNSって面白いの? 』(講談社)。2013年より身体障害者。
1000年以上前の日本文学を現代日本語に翻訳し同時にそれを英訳して世界に発信する「『今昔物語集』現代語訳プロジェクト」を主宰。https://hon-yak.net/