ある種のテーマを取り上げて原稿を書く際に、発注側から事前に燃えないようにと注意をうけるものがある。人種や民族、宗教、LGBT、戦争、特定の国家……。今回取り上げようと思う作品のメインテーマである「いじめ」も、そこに含まれる。作品名は『いじめるヤバイ奴』(講談社)である。
ネタバレをある程度回避するつもりなので、多少、概念的な言い回しになってしまうが、ご容赦いただきたい。
まず、この作品を読んだことがない人や、飛ばし読みしたりと、あらすじをなぞる読み方に留まった人にとっては、タイトルだけでアンタッチャブルな作品というポジションに置かれてしまう危惧がある。というのも、この作品では、いじめられっ子がいじめっ子をコントロールして、いじめを強要している。つまり、いじめを題材にした、コメディであり、ファンタジーとして作り上げているのだ。
いじめとは「なぜ起きているのか」の理由が当事者にしてもわからないことがほとんどである。起きている理由がわからないから、当事者のみならず傍観者ですら恐ろしいと思ってしまう。それなのに、本作のような理由が明らかになっている状態では、もはや理不尽な暴力すらも当事者同士のプレイとして成立してしまう。
極端ではあるが、同テーマのまま風俗店を舞台にした作品だったとても成り立つといえるだろう。むしろ、本作の場合、そのほうが明確にテーマが浮かび上がるかもしれない。これは暴論かもしれないが、そういったコメディとしてのプレイ的な要素があることは、現実のいじめに対する拒否反応を示す方もいるだろうから、あえて最初に強調しておきたい。
それほど、いじめがメインテーマに絡む作品の場合には気を遣ってしまうのだ。
各キャラクターの危険思想レベル
さて、より深く本作を読み解いていくうえで、どのようなキャラクターが、どのような物語を紡いでいくのかを紹介していこう。
いじめっ子の仲島、いじめられっ子は白咲花。この2人を軸に展開していくが、いじめを仲島に強要しているのは白咲である。2人だけの密談となる舞台裏が登場して物語の構造を読者と共有していくという展開が生みだされている。
続いて、序盤のサブキャラは、仲島のいじめを止めようと奔走する田中くん。彼は純粋な正義感と白咲への無自覚な好意のようなものがあいまっていじめを阻止しようとする。
2巻以降ではいじめっ子としてのライバルが登場する。それが加藤くん。彼は転校生で、前の学校でのいじめっ子としての実績があるという鳴り物入りのルーキーとしての登場で、いじめバトル展開になるなど、物語のテコ入れ役でもある。あとは仲島の理解者として振る舞うクラスメイトの青山さん。彼女は、いじめ役に疲弊する仲島を利用して白咲を攻撃しようとする役まわりである。策士タイプで巨乳である。
ほかにも細々キャラクターは登場するが、全体的に狂言回し役は仲島であり、物語の主軸を担うのは白咲という感じだ。
彼らと絡みながら、白咲がなぜいじめを強要するのか、真意は伝えられない。読者にも明かされることはない。すべてを把握しているはずの白咲の過去、思惑などがブラックボックスとなったまま物語を読みすすめるしかない。
白咲さんは本当に何がしたいんだろうか……。主体となる2人の関係性とともに追っていくのが、本作の正しい楽しみ方であろうと思うが、この物語を別の形で読み解くために提案したいのが、主要キャラクターたちの危険な考え方を拾っていくやり方だ。
手前味噌ではあるが5月に『世界の危険思想 悪いやつらの頭の中』(光文社新書)を出版した。世界中の悪いやつらに、どうして殺すの? どうして奪うの? どうして犯すの?的なことを取材して回った内容となっている。
そのなかで私が考えていたのが、個人の思想こそが人を殺すというものだ。その場に銃やナイフがあったとして、それを凶器にするのは、人間の思想、考えによってである。道具は所詮道具。使い手を選べない。というようなことだ。そして、人から奪い、傷つけるような具体的な行動に発展する危ない考え方を私は危険思想と呼んでいる。
本作で危険思想の持ち主を探るとなると、まずまっさきに考えるのが白咲か仲島だろう。だが、危険思想がもっとも薄いのは、実は白咲である。というのも、彼女は自分の所有物しか傷つけていない。仲島にやって陵辱されるのは彼女の肉体、尊厳、持ち物だけである。そして、舞台裏で白咲に虐待される仲島は彼女の所有物である。ヤクザは交渉中に脅しをかけるときに、自分の携帯電話を破壊する。もしくは身内の弟分などをボコボコにする。そうやって自分の財産を傷つけることで、「お前もこうなるかもよ」と、相手に損害を与えないままで脅しをかけるやり方を多用する。仲島が白咲の所有物であると了承している以上、彼は彼女にとってモノでしかないのだ。
その一方、白咲の所有物である仲島は、危険思想には染まっていない。むしろ、忠実に役割を演じきろうとする傀儡(かいらい)である。それは、マフィアの兵隊に見られる盲目的な信仰や忠誠心に基づくものと同じである。ソルジャーたちは、ボスの命令で警察や敵対勢力と銃撃戦もするし、処刑だってする。平気で実行できるのは、自らの意思とは関係ないところで動くからである。上からのある種の洗脳を受け入れているようなものなのだ。
たとえば、筆者が以前取材した裏社会の人物は、殺人を実行するときに直接殺害に関わっていない人間に、遺体の処理を手伝わせることで、共犯意識を植え付けていた。これは強烈な楔(くさび)となって、その後の人間関係を縛ることになる。本作でも白咲は、何度となく巧みに共犯意識を仲島に植え付けている。
完全なる傀儡状態で危険なことを考えられるわけもなく、思考のパフォーマンスは合理的に司令を遂行するために大半が割かれているに過ぎない。その結果、残忍ともいえるような行為におよんだとしても、それは命令あってのもので、本人の思想や嗜好とは言えないのである。
ちなみに、白咲の巧みなやり口については、その他大勢のクラスメイトにもおよんでいる。本作はあくまで学園いじめコメディものであるから、厳密に分析するのも野暮というものだが、本来、集団というのは、コントロールするのが大変である。それを自分たちの都合のいいように動かしているのは、仲島を通じていじめの共犯意識を植え付けているからにほかならない。そして、仲島から白咲へのいじめ行為がエスカレートすることで、ほかのクラスメイトたちが、自分たちの土俵にあがってこないように参入障壁を築いているところも巧みな方法である。
現実においても、集団に狂気が伝播(でんぱ)すると止めようがない。筆者も南米のボリビアでリンチにあいかけたことがあるが、その際には、最初は声を上げている男がひとりだけ。そこに何人かが集まって10人になったところで、周囲を巻き込みだした。異様な気配がしているのはわかったが、止めようがなかった。通訳が「リンチに発展します」と言った瞬間に逃げ出すことで事なきを得た。徐々に広がる狂気というのは、それほどのものなのである。
では、白咲と仲島のステージに登場してきた、ほかの主要キャラクターはどうか。凶暴性や狡猾さという点からしたら加藤や青山はかなりのレベルにあるだろう。ただし、抱えているベースの思考が危険かといえば、そうでもない。
彼らはどちらもゲーム感覚で生きている。自分の楽しみのために最適な手段としてのいじめを選択しているにすぎない。彼らのような人が現実世界にもいる。いじめを実行することもあるだろう。しかし、ほかに楽しみを見出したり、いじめる環境がなければ、別の楽しみに切り替えられる。学校を卒業したらいじめていたことすら忘れてしまうタイプなので、被害者からしたら罪深い存在ではある。現実の人間だったら、相応の報いを受けるべきだが、危険思想的には、根本的に危険かというと、それほどでもないと言える。
いちばんヤバイ奴は誰だ?
それぞれの主要キャラが持っている危険思想を把握してもらったところで、筆者の視点で拾い上げておきたいもっとも危険な思想の持ち主を紹介しておきたい。
それは田中くんである。
先ほども述べたように、主軸の白咲と仲島は、2人だけのルールのなかで動いている。お互いの同意のうえで犯罪行為であっても受け入れてしまっているのだ。ときおり巻き込まれるその他大勢のクラスメイトたちも共犯意識を強烈に植え付けられているので、仲島に準じる扱いとなる。加藤と青山は、一過性の娯楽。それに対して田中は己の内から湧き出る「正義」によって動いている。
自分の行いがもたらす結果よりも、自分を肯定する力が強すぎて、自分の行動が社会においてどのように受け取られるのかが見れなくなっている。たとえば、作中で白咲の家に不法侵入して盗撮しようとした場面がある。現実に自分が実行するとなったらどうだろうか。よほどの理由がない限り、同級生の家に侵入して盗撮などできない。明確な犯罪だからだ。それなのに田中は正義だからできる。
正義とは、自分の行動を正当化する免罪符ではあるが、不逮捕特権でも、治外法権でもない。ましてや公共性のある判断基準でもないし、最大多数の同意でもないのだ。正義を振りかざす人の意見に誰もが付き従うのは、ある種の幻想である。しかし、1度でも正義に目覚めると、正義を振りかざす気持ちよさに蝕まれてしまう。より正しくあろうとするために、田中がバランスを崩していく様は、本作序盤の最大の見せ場のひとつといえる。
昨今の情勢を考慮して、一応、フォローしておくが、もちろん正義感を振りかざすことは正しい部分もある。それがいじめを止めるためであればなおさらである。現実社会では尊いことで、まったく咎(とが)められるようなことではない。
ただ、これはフィクションであり、いじめのねじれ構造を扱った作品のなかであるからこそ、田中がわかっていないやつになってしまっているのだ。そこがコメディたる所以ではある。
最後に私がこの作品を通して、気がついてもらいたいことがある。作品が展開する中で、もしかして「これぐらいのいじめはセーフ」「このぐらいの暴力は軽いからいいかな」などと思っている人はいないだろうか。
実は危険思想的には、この部分がもっともヤバイ。
というのも、人間には妙な特性がある。間違いに対しては正解を提示して終わりにするのに対して、程度の差による部分を埋めるために、相手に対して「甘い」と思うと、際限なく圧力をかけるのだ。それも「善意」や「正義感」から、無自覚にだ。
たびたび自分の作品の話をして恐縮ではあるが、拙著の『世界の危険思想 悪いやつらの頭の中』では、タイトルにちょっとした仕込みをしている。作品のタイトルにある危険思想といえば、ファシズムなどをイメージするところ。それなのに犯罪者の考え方を集めて思想と銘打っている。これに対して「思想とは呼ぶほど掘り下げていない」と、間違いじゃないけど甘いんじゃないかと、程度問題を引き合いに出す人が出てくるだろうと予想したからだ。案の定、タイトルにだけくらいつく人はいた。そして、「思想とは……」と、レビュー欄で聞かれてもいないことを押し付けてきた。まあ、予想通りとはいえ、それが原因でレビュー欄でクソミソに言われると凹んでしまうのだが。そうなるのは、やる前からわかっていながら、どうして実行したのか……白咲さん同様に内緒である。
さて、このように、相手を甘いと思うと、公の場だろうと、どこだろうと、仕掛けてしまうのが無自覚な危険思想の恐ろしさなのである。特に本作で言えば、仲島と加藤のいじめバトルなどは、その最たる例だ。仲島が反則級のやり方で不正解であると突きつけなければ、「甘いんだよ」の繰り返しになってしまうからだ。そうなると、いくところまでいってしまうしかない。序盤で一気に勝負をつけた仲島の判断は秀逸だったといえるだろう。
ここまで読んでみて、あなたは知らないうちに危険思想の種を発芽させていないだろうか。
作品に対して「甘いな」と思った人は、良かれと思って、自分の正義に従って、作品に足りないと思うなにかを指摘しようとしているだけかもしれない。
単にいじめを扱ったこと自体を許せない気持ちからだけかもしれない。
主要キャラの人間性に同属嫌悪をしただけかもしれない。
なにがトリガーになっているかはわからないが、この作品を合わせ鏡として、どんな自分に気がつくか。それはあなた次第である。『いじめるヤバイ奴』は、そういった面白さをも秘めた作品となっている。
考古学者崩れのジャーナリスト・編集者・國學院大学学術資料センター共同研究員。新刊『世界の危険思想 悪いやつらの頭の中』(光文社新書)発売中