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2019.04.05

インタビュー

死にたくなったらキッチンを掃除しよう。【自殺について考える】

石井徹
石井の質問

ショーペンハウアーの「自殺について」でずっと気になっていたのですが、「自殺を否定しない」と彼は言っております。これは哲学上論理的には否定できないということですか? もし自殺を止めようとしたとき先生だったら哲学者としてどうやって説得して止めますか?

苫野一徳
苫野先生の答え

ショーペンハウアー自身は、もちろん哲学理論上自殺は否定できないという論法だと思います(彼の哲学はたぶんに彼の「趣味」に引っ張られる傾向があるように思っていますが)。

哲学的には、自殺は人間の「自由」のための最後の選択肢だと言えます。病気やいじめなどによって自由に生きる(生きたいように生きる)希望が完全に絶たれた時、最後の自由(自己選択・自己決定)の行使として、自殺は認められるだろうと思います。

が、まさにだからこそ、自殺を思いとどまる理由も原理的には1つで、それが自由の可能性、希望が見つかること(キルケゴールは、「気絶した人には水だ、オーデコロンだと言われるが、絶望した人には可能性だ、可能性を持ってこいと言わねばならない」と言っています)。

ヘーゲルは、自由の根本条件は他者からの承認であると言っています。他者から承認されると、「自分て悪くないかな」「生きていてもいいかな」と思えるものだと。 そんなわけで、私が自殺しようとしている人に声をかけるとするなら、関係性にもよりますが、「あなたが必要だ」「あなたという存在を、自分は必要としている」という、全面的な存在承認だろうと思います。

石井徹
石井の質問

先生、ということは自殺するなと明確に言っているのは哲学ではなく宗教ですか? あと2つ質問があります。

1つは要は自殺防止は「可能性」や「存在承認」が必要となります。本人は可能性がないと思っております。また「存在承認」には他者の存在が必要かと思います。「可能性」にしても「存在承認」にしても簡単に言うと「友達」の存在が必要だと思います。「友達」といっても広く家族、親戚のオジサンなども入ると思います。こういう人がいれば、そして「可能性」や「存在承認」を示してくれれば自殺しないのではないかと思います。強い意志があれば世の中から自己自身で「可能性」を見出すでしょうし、自ら「存在承認」をするかもしれません。そういう人は極めて稀でしょう。結局どうしたら「可能性」や「存在承認」をしてくれる人、つまり親友を見つけるかが課題のような気がします。それが哲学には書かれていないように思えるのです。もし書かれていたらお教えください。

最後の質問なんですが、哲学ではハッキリと自殺を否定できないことは理解しました。若干哲学の無力感を感じます。しかし先生は哲学者であると同時に教育者です。教育者のお立場ではどうやって生徒の「自殺」を止めますか?

苫野一徳
苫野先生の答え

そうですね、まさにキリスト教は、自殺を禁止していますね。ショーペンハウアーの頃から、そのキリスト教に反旗が翻され始め、ニーチェによって頂点に達します。

自殺は哲学的に否定できない、それは人間の自由の最後の選択肢だから、というのは、哲学の無力というより、確かにそう考えるほかないという意味で、「原理的な考え」と言えるかなと思っています。ちなみに哲学のいう「原理」は、いわゆる「原理主義」の「原理」とは違って、むしろその反対に、誰もが納得せざるを得ない考え方のことです。哲学はそのような意味での「原理」を探究する「原理の学」です。

宗教は「信じる」ことで成り立つ「命令の思想」ですので、それが効く場合もあれば、かえって無力である場合もあると思います。人は「命令」されてもそれに従えるわけではありませので、信じる人には効くけれど、信じない人には効かない、と。

対して哲学は、自殺は原理的には否定できないけど、思いとどまる可能性があるとしたらその「条件」は何かと考えます。『はじめての哲学的思考』では、これを「『命令の思想』から『条件解明の思考』へ」と呼びました。 というわけで、哲学的にはこうなると思います。

・自殺は否定できない。それは人間の自由の最後の選択肢だから。
・でもそれを思いとどまる条件はある。
・その最大の条件は、他者からの「存在承認」である。

そこで石井さんからのご質問ですが、確かに、「存在承認」してくれる人の見つけ方、といった哲学はないかもしれません。

それは、このテーマがかなりプラクティカルな次元のものだからだと思います。哲学は「原理の学」ですので、たとえば人生のハウツーを考えるのではなく、そうしたハウツーの土台を敷くものだとお考えいただければと思います。私は、自己啓発などのハウツーが即効性のある(でも長持ちはしないかもしれない)薬だとするなら、哲学は基礎体力を作る漢方薬のようなものと言っています。

その上で2つ目のご質問ですが、私が学生の自殺を止めるとするならこう言います。 「自分もウツになって自殺を図ったことが何度もある。でも、今は幸せに生きられている」。これは何度か言ったことがあります。実際の話なので、それなりに説得力があるようです。 もっとも、緊急の場合でしたら、縛り上げてでも学生の自殺は止めます。

石井徹
石井の質問

また疑問が生じたのでお答え下されれば幸いです。以前先生のお伺いしたときに下記のようにおっしゃっていました。

『自殺を思いとどまる理由も原理的には1つで、それが自由の可能性、希望が見つかること(キルケゴールは、「気絶した人には水だ、オーデコロンだと言われるが、絶望した人には可能性だ、可能性を持ってこいと言わねばならない」と言っています)。 ヘーゲルは、自由の根本条件は他者からの承認であると言っています。他者から承認されると、「自分て悪くないかな」「生きていてもいいかな」と思えるものだと。

そんなわけで、私が自殺しようとしている人に声をかけるとするなら、関係性にもよりますが、「あなたが必要だ」「あなたという存在を、自分は必要としている」という、全面的な存在承認だろうと思います』

そこで質問です。あれからずっと考えていたのですが、だんだん疑問が生じてきました。

先生は、自由、生きたいように生きる自由と全面的な存在承認が自殺を防げるとおっしゃっていますよね。最初これらの言葉を聞いた時ホッとしました。しかしずっと考えておりましたが、①生きたいように生きる自由と②全面的な存在承認の2つを得るのは難しいのではないかと思えてきました。

ですが、「問い」が生じてしまった人間はそもそもどう生きていったらわからないのです。例えばオレは東大法学部にって威張りたいんだという単純明快、かつ単細胞な価値基準の人なら生きたいように生きる自由は非常にわかりやすいのです。しかし人生に「問い」が生じてしまった人間はそれでいいのだろうか、偉くなることが生きることなのだろうかと悩んでしまう。「自由」をどうやって得ていいのかわからないのです。ハッキリって私はもう60歳ですが未だにわかりません。

②の全面的な存在承認ですが、これは端的に言って親友とか同志を得ることだと思うのです。そうでなければ親、もしくは親のような存在を得ることになるかと思います。親はおいといて、他は非常に難しいのです。
中には友達なんかいらないとはっきり言う人もいます。非常に幸せな人たちです。こういう人は自己肯定感が半端じゃありません。自分で自分のことを全面的に存在承認しているのですから幸せです。しかし異常です。みんな大抵の人は共同体意識があります。誰かの世話にならないと生きていけないし、世話もしています。それが意識的であろうが無意識であろうが、誰かと関係をもっている。ところが友だちが要らないという人を観察していると、他人に世話になっていることを意識していないようです。というか他人が親切にしたら「こいつバカじゃないの。自分の得にもならないのに」という感じで他人を利用しています。迷惑な話ですが、こういう人が正直羨ましいのです。損得勘定だけで生きていけるからです。

「問い」が生じてしまった人はこんな非常識な行動や思考しません。そうすると元に戻って他者に全面的な存在承認を求めたくなります。「自殺」の解決は「自由」と「存在承認」というのは理解できます。確かにそれらがあれば死のうなんて考えないでしょう。しかしそれらが得られないから死を選ぶわけで、これでは循環論になってしまう気がします。私の解釈は哲学的に間違っているのでしょうか?

苫野一徳
苫野先生の答え

おっしゃること、よく分か(るつもりでお)ります。
循環論というより、自殺する/しないの分かれ目の条件は何か、という話だと思うのです。その分かれ目が、「ギリギリの自由と存在承認」が保たれているかどうか、ということだとわたしは考えています。

となると次のステップは、いかにギリギリの自由と存在承認を確保しうるか考える、ということになると思います。

おっしゃるように、「問い」がなかったり、人を利用できるような人は、そもそもその「ギリギリ」に遭遇することが基本ないと思いますので、さしあたり考える必要はないかと思います。

そして確かに、私たちはそのギリギリの「自由」と「存在承認」を得るのが難しいわけです。

特効薬はありませんが(あるとしたら宗教でしょうか)、前にも申し上げたかもしれませんがわたしは次のようなことを言っています。

まず「問い」ですが、これは要するに「存在仕方」(実存)についての問いだろうと思います。特に、存在していることの「意味」の喪失が、自殺を引き起こす大きな要因かと思います。そんな時、わたしは、迂遠だけれども2つの方法を紹介しています。特に、自分が何者かわからない、どう生きれば幸せか、自由か、わからない、という若者たちに言っています。

1つは、価値観・感受性を刺激するものをたくさん読み、見、触れ、聴くこと。小説を読み、映画を見、音楽を聴く。そして大事なのは、できるだけそれについて人と対話する。何が人と通じ、何が違うのかを知る。すると、自分の価値観・感受性がより深く理解できるようになり、いつしか、自分の幸せな生き方、自由な生き方がおぼろげにも見えてくるかもしれない。

若者たちと、そんな哲学対話の場を時折設けていますが、こうした対話を通して、若者たちが「生きる意味」をおぼろげに掴んでいく様をなんども見てきました。

もう1つは、これは特にウツになった時の話ですが、世界から「意味」がなくなった時、「意味」が崩壊した時に有効なのが、「キッチンなどを掃除する」こと。変化がすぐ目に見えることをすることで、自分が世界に「意味」を与えていることに気がつくようになる。すると少しずつ、世界にまた意味の彩りが現れることになる。 これについては、先日家入一真さんがこんな記事(https://ieiri.co/n/nd3603b2af27b )を書いてくれていました。これも、「自殺を思いとどまる」についての大事な考えだなあと思います。

次に存在承認については、まさに親、友人など、幸運に恵まれる必要があると思います。 が、同時に、だからこそ、保育士や教師が、承認の「最後の砦」であるべきだとわたしはずっと言っています。教師は、子どもたちにとっての存在承認の最後の砦であってほしい、あるべきだと、考えています。 あと、先ほどの「価値観・感受性の交換対話」も、自分と価値観・感受性を共有できる人を見つけ出すいいきっかけになると思っています。それは存在承認を得られるいい場だろうと思います。 「哲学対話」の機会には、そんな悩める若者たちがたくさんやってきて、そしてそれなりにいい仲間を見つけています。そんな機会を、増やしたいなあと思っています。

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苫野一徳(とまの・いっとく)

哲学者、教育学者。熊本大学教育学部准教授。軽井沢風越学園。自身のブログでは350冊以上の哲学書を紹介しており、テレビやラジオでも活躍する。著書に、『「学校」をつくり直す』(河出書房新社)『子どもの頃から哲学者』(大和書房)『教育の力』(講談社)『勉強するのは何のため?』(日本評論社)『どのような教育が「よい」教育か』(講談社)など。

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石井徹(いしい・とおる)

入社以来、少年まんが・青年まんが一筋の編集者として活躍。月刊少年マガジンでは、「名門 多古西応援団」「鉄拳チンミ」を、週刊少年マガジンでは、「名門 第三野球部」、「風のシルフィード」、「マラソンマン」、「ブレイクショット」などのヒット作を生み出す。その後、ミスターマガジン、ヤングマガジンの編集をへて現在「講談社まんが学術文庫」編集長。

自殺について

原作 : ショーペンハウアー
著 : 伊佐 義勇

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