くちうつす。ひらがなで開かれたこの表記を目にしたら、色っぽい情景が浮かんで来ないだろうか。たとえば口に含んだ氷を相手の口に運ぶような、キスの延長。よほど親密な関係の相手にでないとできないような動作。情事の始まりを予感させる……などといったら言いはじめたらキリが無い。妄想が膨らんでしまうのを止められないような艶っぽいことばだ。
そんな艶めかしい響きを持つ天沢アキの新作『くちうつす』。本作は小説家と歯科医による性愛小説の口述筆記をきっかけに、エロティシズムに満ちた愛のカタチ、官能的なオトナの恋愛に誘ってくれる。
純愛小説家の青木由夏。新人賞でデビューするも、その後の作品が伸び悩みをみせていた。そんな折、編集部より彼女のもとに来た「性愛小説」の依頼。プラトニックな世界観を書きたいという自己の固定観念、思い込みからか性愛小説の執筆に対していちどは難色を示すも、出版社から最後通牒を突きつけられ、いまひとつ乗り気で無いまま性愛をテーマにした小説の執筆をはじめる。
しかし締め切りの直前、由夏が通う歯科クリニックの担当歯科医、長谷川の前で腕を骨折したことが端緒となって、さらに様々な思惑が重なり、長谷川に口述筆記を依頼することになる。
官能的な物語を口述筆記でさほど親しくない異性に話す……。少し聞いただけではどんな罰ゲームなんだと思ってしまうだろう。だが、それがエロティシズムのトビラと言えよう。あけすけに表すのならば羞恥プレイとでも言えるだろうか。
むろん、由夏は最初こそ長谷川による口述筆記の申し出を固持するも、さまざまな事情が折り重なり、結果的に長谷川に依頼することになる。やがてそれが彼女の新しい世界を開いていくきっかけになっていくのだが……。
いちど拒絶したものに対して自己の意思で踏み出していく心境の変化の在りよう。そしてこの“受け入れる”という変化が人を魅力的に見せていくのだ。仮にそれが受動的なものであったとしても。
そうして長谷川の自宅で行われる口述筆記。深夜、密室、男女2人きりというシチュエーションのなか、まるで編集者と作家のように、ジャムセッションのように作品を作り上げていく。始めは長谷川に魂がこもっていないと言わしめた“そそらない”文章が次第に熱を帯びていく。性愛を避け、性愛のない世界で生きてきた由夏の文章は長谷川に導かれて鮮やかに艶めきはじめる。
おそらく本作を手に取った読者の多くは、はじめは由夏に感情移入しづらく感じられるかもしれない。
彼女の行動は、自分にも他人にも踏みこめず、自らが線を引いて定めたアイデンティティのもとに行動しているかのように見える。言うなれば自らのペルソナに閉じこもったまま、自分が心地よく感じる範囲内でのコミュニケーションで生きていくという、常に仮面を被った存在でいようと見えるからだ。
しかし、長谷川との口述筆記を重ねるうちに次第に彼女の本質が見えてくる。「自分をさらけ出すことを恐れ、さらけ出した自分を拒絶されることを恐れている」からなのだと。だから格好つける。いい子ちゃんでいようとしている。そんな彼女の本質に気付けばきっと男女を問わず、“由夏は自分かもしれない”と思えてくるだろう。
すると、この作品は現代に生きるコミュニケーション難民たちへ向けたエールであるようにも読み解けるのだ。
由夏の内面の葛藤は建前と本音を行ったり来たりしており、いじらしくも、もどかしくもある。そんな彼女の感情の振れ幅を乗り越えるきっかけになっているのは決まって他者だ。
長谷川とのセッションは由夏ひとりでは絶対にたどり着けなかった境地に彼女の作品を誘っていく。由夏自身さえもずっと閉じこもっていた「純粋な恋愛の世界に逃げていたい」という殻を剥がす。オトナの恋愛の世界に手を引くように導いていったのだ。かくして由夏は長谷川との二人三脚で作り上げた作品によって連載を勝ち取る……。
由夏が求めているような、手を引いてくれる誰かを求め、導いてくれる誰かを求めているといった姿勢は、我々が日常生活において、他者に受け入れられたいという根源的な欲求のようではないだろうか。
「誰かとちゃんと向き合って、さらけ出してもっと経験した方が良い」と編集長が放つセリフも、病になってしまった現代人に向けての檄のように聞こえてくる。
直接的な表現を極力抑えて描かれている本作から匂い立つエロティシズムは、淡泊に捉えてしまう読者もいることだろう。しかし冷静さを保ちつつ、燃え上がる情念が封じ込めてられているコトに気付いて欲しい。なぜならば、目の前の画面に直接的な単語を入力すればあられもなく、刺激的な画像がたやすく手に入る現代インターネット社会において、クリエイティビティに溢れた想像力をかき立てられる穏やかなエロティシズムは貴重なのだから。
繰り返すが、本作には直接的な表現はほとんど見られない。あるとすれば、口述筆記をしている性愛小説のシチュエーションを表したもので、登場人物本人たちの濡れ場はない。にもかかわらず、まるで実際に身体を重ねているような、由夏の上気した心境が伝わってくるのだ。
はじめは由夏と長谷川だけの秘め事だった口述筆記の関係にも、長谷川の幼なじみに友人が加わり、由夏の意識に変化をもたらして物語に彩りを添える。また作品を連載している雑誌の編集長が、長谷川とかつて浅からぬ因縁を持っていることが次第に浮き彫りになり、長谷川の意識にも変化が起きてゆく。
ただひたすら受け身である由夏がこの先、どのように歩き出していくのか、どのように自分以外の他者と向き合い、自分をさらけ出していけるのか。これからの展開が楽しみな一作である。
レビュアー
静岡育ち、東京在住のプランナー1980年生まれ。電子書籍関連サービスのプロデュースや、オンラインメディアのプランニングとマネタイズで生計を立てる。マンガ好きが昂じ壁一面の本棚を作るものの、日々増え続けるコミックスによる収納限界の訪れは間近に迫っている。